穏やかな営み

 

 この下田の事務所に引っ越してきたのは2005年だから、もう13年にもなる。

 

 400坪近い敷地に大喜びして、すぐさま甲突川べりの木市に、ミカン類の苗を買いに走った。どれも1本2000円。八朔の苗を5本買ったら、1本おまけしてくれたのを思い出す。

 

 その八朔も今では根元の直径が20cmくらいに成長して、たわわに実を実らせている。全部合わせて200個は下らない。1個50円とすると全部で1万円になる。すっかり元は取った。しかも、何にも手をかけることなく毎年実を付けてくれる。ありがたい限りだ。
 秋口から色着くのだが、やっぱり年を越さないと甘くならない。

 

 先日、出版の打ち合わせに来た著者などは、袋一杯収穫して行った。それでもまだ鈴なりだ。もちろん無農薬だから、皮はマーマレードが作れるよと、同行の奥様に話したら、とたんに目がキラキラしはじめた。いかにも嬉しそうだ。

 

八朔が鈴なり

 

 焼酎飲みには、小ぶりなスダチがいい。半分に切って焼酎に絞れば、二日酔いはしない。スダチ焼酎を飲むとき思い出すのは、民俗学者の下野敏見さんと、しこたま飲んだこと。これも10個ほど分けてあげた。

 

 スダチの根元に、フキノトウがいい具合に膨らんでいるのを発見。天婦羅にすれば最高だ。天婦羅、天婦羅、と口ずさみながらフキノトウ探しが始まった。これも、10個ほど持って帰ってもらった。

 

フキノトウ発見

 

 下田に来て2年目に建てたトリ小屋は傾いているけど健在だ。6月に農協から仕入れたオス1羽、メス12羽は、全部順調に大人になっている。台風で吹き飛んだ屋根のタキロンも、すぐに修繕してあげた。いまでは、毎日卵を10個は産んでくれる。


 ついでにトリ小屋を覗いたら5個産みたてがあったので、これもプレゼント。有精卵だ!と感動してくれた。37度で18日保温すればヒヨコが生まれるよと伝えたが、もうお腹の中だろう。

 

オスはメスが餌を食べるのを見守る

 

 今年は暖冬だと言うけれど、季節はめぐり、約束通りミカンは実っている。ニワトリは卵を産んでくれる。小社創業の1994年に比べると、出版の市場規模は半分になったという。確かにうちの会社も、売り上げはだんだん落ちてきて、かつての半分くらいになってしまった。

 

 だからどうした。
 ミカンは実り、フキノトウは芽吹き、ニワトリは卵を産んでいる。客人は取り放題だ。この穏やかな営みの中で仕事ができている。これを幸せと呼ばず、なんと言おうか。


変わり者たち


 世の中には変わった人がいるものだ。

 

 日本で旧薩摩藩領の鹿児島・宮崎両県のみに見られる田の神を訪ね回り、1500体余りを写真に収めた医者がいる。『田の神石像・全記録』を小社から刊行したのは今年の4月のことだ。

 

 

 先日は、奄美赴任中のほぼ全ての土日に山野を駆け回り、800種ほどの植物の写真を撮影し、図鑑を出したいという県職員が来た。ただ闇雲に撮ったわけではない。すべての種の花を撮っている。花期は数日、長くても十数日と限られる。風の吹く日は花が揺れ、撮影できない。並の努力ではないことが分かるだろう。


 いずれも本業ではない。多忙な仕事の傍らで時間と金をつぎ込んで、まるで憑かれたように打ち込んでいる。
 そのおかげで本が作れるのだから、小社にとっては有難い変わり者と言える。

 

 今取り掛かっている本は、『写真でつづる アマミノクロウサギの暮らしぶり』だ。夜行性で深い森に棲むため、生態は謎に包まれていた。
 ねぐらを探し当て、夜ごと通う。そのうち春と秋に出産期があることを発見する。繁殖行動、繁殖用の巣穴での出産、授乳、父親の育児参加の様子と、子どもが育つまで追っていく。縄張りを示すマーキング。これは喉を木の幹にこすりつけていく。親子が互いの位置を確かめるための鳴き声発し、メスが気のあるオスにおしっこをひっかけるシーンもある。著者は、排尿ではないため放尿と名付けた。

 

 世界中で誰も見たことのない写真が目白押しだ。

 実は、これらを撮影したウサギのねぐらは、100メートルもある断崖絶壁の際である。おまけに夜は、夜行性のハブが活発に動き回る。まさに命がけの撮影なのである。

 

 奄美の希少生物の撮影で高名な常田守さんが本書に一文を寄せている。
 「今回、この本によって、多くのアマミノクロウサギの生態が明らかになった。人類の知らない彼らの生活が一つひとつ写真に収められ、この本で見ることが出来る。何と幸せなことだろう」

 

 この本の著者は、ほとんど毎夜、山に入っている。ウサギが外出から帰りねぐらに潜り込む夜明け過ぎに、彼も家路につき、ようやく床に就く。
 彼の本業はタクシーの運転手だ。一銭の得にもならないことに情熱を傾け、時には命さえかけていく。先に変わり者と書いたが、ひたむきな求道者というべきかもしれない。

 

 本を作るということは、けた外れの情熱を持つ彼らの人生の表現でもあると、あらためて気づかされた。

 

 

 


我こそは隼人2

 

 沖縄の「和」の文化に対比して、日本、とりわけこの鹿児島は「武」の文化と呼ばれることがある。床の間に沖縄では三線を飾るが、鹿児島では刀を飾るというわけだ。

 

 島津義弘の敵中突破や、明治維新、西南戦争を武器を手に戦った鹿児島の武士団から、外部には「武」の文化は理解されやすい。自分の先祖も一緒に戦ったと、勘違いしている人も多いが、8割近く、大半の庶民は、八公二民の強搾取にあえぎ、「武」の文化とは全く無縁だった。113の外城(郷)には、年貢を徴収し、庶民を常時監視する郷士が配置されていた。幾重にも階層化された武士団の秩序を守るため、物言わぬ兵を作る郷中教育が、士族の子弟には待ち受けていた。

 

 ナチスもびっくりのファシズム専制支配が貫徹していたと言っていい。そんな中で育まれた「武」の文化だ。

 

 考えてみれば、鹿児島の武士団は平安後期、鎌倉期から荘園管理や、島津氏の領国統治のために畿内や関東から配置され、いつの間にか、支配層として住み着いた者たちである。

 

 沖縄とて、大半の庶民は、三線どころか、どこからかやってきた沖縄士族を養うため、牛馬のごとく働いていたに違いない。

 

 そんな中で、ひときわ目を引くのが、鹿児島の田んぼのほとりに佇んでいる田の神像である。豊穣と子孫繁栄への祈りが凝縮されている。

 

 日本全国、あるいは世界中、どこの地にも、山の神、海の神がいた。鹿児島の田の神は山の神の化身と言われる。春に山から下りてきて田を見守り、秋になるとまた山に帰る。
 はるか昔から続く家族の営みと、人々が日々の糧を得るために流す汗を見守る田の神でもあった。
 中央政治に左右されることなく、他国を攻めたり、攻められたりとは無縁の、土に生きる庶民が作り上げたものである。この人達こそが隼人であった。

 

 徳之島のMA−T計画(原発ゴミの再処理工場)を追い払った島民集会の宣言文に「先祖伝来、苦難の歴史をのりこえてきて、今日この美しい徳之島を見るとき……未だ経験したことのないこの恐るべきたくらみを断じて許すことはできない」という一説がある。土と一体化した腹の座った強さにあふれている。
 原発や原発ゴミの最終処分場は、長く続いてきたこの土地での生存を脅かす、まさに「未だ経験したことのない恐るべきたくらみ」である。


 やはり、私たち鹿児島人がこのたくらみを追い払うことができるかどうかは、先祖への思いと、土への愛着を呼び起こすことができるかどうかにかかっていると思う。

 



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鹿児島市の郊外にある民家を会社にした「自然を愛する」出版社。自然や環境、鹿児島、奄美の本を作っています。

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