なんと週休5日制

 

 明治維新150年だの、西郷どんだの耳にするたびに、当時の鹿児島の民衆、とりわけ大多数を占めていた農民たちの暮らしや意識が気にかかる。

 

 私の姓は向原である。今でも、実家の吉利では、何百年も続いてきたであろう「うっがんさあ祭り(内神様祭り)」を毎年11月にやっている。向原、上原、冨ケ原、上内、下内という5つの姓の代表が集まり、神様を崇める。

 

 神様といってもただの石ころ3つなのだが、信心は鰯の頭ならぬ石ころをも神にする。左結のしめ縄とともに、毎年、神様の台座3つをワラで結って作る。まるで鳥の巣みたいだから、皆「といのす」と呼ぶ。けっこう面倒で、いつの間にか私が「といのす」作りの唯一の伝承者になってしまった。

 

 祭りには神主を呼ぶのだが、その祝詞の中に「向原門(かど)の向原祥隆」という文言が入る。「向原門(かど)」。まぎれもなく、鹿児島独特の江戸期の農民支配の仕組み「門割制度」の名残だ。「門」とは、農民たちが怠けないように作られた、5人組のような単位のこと。門ごとに、年貢を幾らと割り当てていた。

 

 この年貢がハンパではない。「八公二民」、収穫の八割を年貢として持って行かれた。

 吉利の殿様小松家の屋敷とその周辺の麓集落から、遠い向こうの原っぱ「向原門」を、我が先祖は割り当てられた。その下に「上原」、そのまた下のちょっと豊かな「冨ケ原」、そして「上内」「下内」という門が続いた。

 

 明治になって姓を付けるとき、鹿児島の農民たちは、たいてい門の名を姓にした。例の三反園氏、どう見ても門の名ですね。

 明治になって四民平等だ、やれやれ、年貢とはおさらばじゃ、とならなかったのが我が鹿児島。他県の武士があっという間に没落していったのに対し、鹿児島の田舎の武士、郷士たちは土地を持っていたおかげで権力関係を維持し、それは敗戦まで続いた。農民にとってみれば年貢が小作の上納に変わったに過ぎない。

 

 戦後は高度成長期という出稼ぎと集団就職の時代を迎え、過疎・廃村の今に繋がって行く。
 何百年昔と同様、土間に座り込んで今も「といのす」を作っているのだが、よくもまあ「八公二民」の年貢で生きてこられたものだと思う。

 

 ここで気が付くのは、それほど税金で持って行かれることのない今なら、5日のうち1日だけ働いて、年貢の分4日遊んでも生きられるということ。それほど豊かな大地なのだ。


 週に2日も働けば十分。

 逆に言えば週休5日制が成り立つのが鹿児島の田舎なのである。

 

 

 

 


島に棲む

 

 先日、出版社から直接「中央公論7月号」が送られてきた。
 うちの本の紹介でもしてくれたのかな、とめくっていたら、ありました。「この科学本が面白い」というコーナーに、出したばかりの『島に棲む―口永良部島、火の島・水の島―』の書評が載っていたのです。評者は山極寿一氏。

 

 科学本かどうかは別にして、この本は文句なしに「面白い」。生きるということは、なんて彩り豊かで、心躍らせるものなんだと再認識させてくれる。私が多言を弄するより、山極氏の唸るような文章を下に引用する。

 

 「(略)貴船庄二さんと裕子さん夫妻は団塊の世代である。東京の武蔵野美術大学で知り合い、学生結婚した。一九六〇年代の終わり、東京には高度経済成長期の社会を問い直す嵐が吹き荒れていた。多くの日本人が歩もうとする道を拒絶し、貴船さんは生の暮らしを模索する。汲み取り作業員、焼き芋屋、サンドイッチマンなど、あらゆる職業を転々とするうちに長女と長男が生まれ、家族で住むのに適した土地を求めて日本列島を渡り歩いたあげく、口永良部島にたどり着く。(略)

 

 口永良部島はそうした工事漬けの影響をあまり受けなかった代わりに、何でも自分で作り出さなければならなかった。山で竹を切って海岸の砂で磨き、乾かして釣竿を作る。餌は海岸の岩場にごまんといるフナムシだ。それでオウムのような口をしたブダイが面白いように釣れる。イカを釣るには、浮力が強く光を反射する木を選んで餌木を作る。ヘミングウェイの『老人と海』に登場するようなオジイとイカ釣りを競う話は圧巻だ。

 

 やがて、貴船さんは廃校に残された材木を使って自らユースホステル(後に民宿として開業)を建てる。資金はない。土地を借り、材料を集め、人を募り、何年もかけて作り上げる過程は、家を建てるというのは本来こういうものなのだということを教えてくれる。
隣人とは何と愛おしく、そして厄介なものであることか。わずか百数十人の無医村で、荒ぶる自然と付き合いながら子どもを産み、育てていく暮らし。そこには私たち研究者が見逃している自然へのまなざしがある。屋根を吹き飛ばす台風の襲来、高波による難破、火山の噴火、島の老人に訪れる死、思わず息を吞むような緊張感と解放感が伝わって来る。(略)」

 

 貴船庄二さんは、本が出来上がった直後に逝去された。フナムシを餌に、リールを使わず、竿と糸と針だけのハジキ釣りに連れて行ってもらいたかったが、もう叶わない。だが、私にとっての勇者の記録は残った。

 

  

 


ご苦労様。柳田国男さん

 

 最近、人に会ったとき「決まりごとを破るのが大好き」と自己紹介することにしている。ある愛すべき反原発の年寄りと飲んだ席で、「決まりごとを破る」話で大いに盛り上がったのがきっかけだ。
 だがこれも、相手を選ばなければならない。ポカンとされるのはまだしも、さも胡散臭げな眼で見られるようになる。あわてて、「車が一台も通らない深夜の赤信号で、緑になるまでずっと待ち続ける人はいませんよね?」なんて付け加えても、遵法精神旺盛な人には通用しない。まあいいや。嫌われてもそれだけのこと。

 

 本作りにも似たようなところがあって、誰も信じて疑わなかったことを、ゴロリとひっくり返すような本が出せれば快感だ。最近では『奄美・沖縄諸島 先史学の最前線』がそれだ。

 


 奄美・沖縄では、実のところ長く何を食べてきたかは分かっていなかった。数ある遺跡で巻貝の殻、猪や黒兎の骨、ドングリ類が見つかっているから、それを食べてきたことは分かる。だが、栽培植物、とりわけ穀物がいつから入って来たかは謎のままだった。

 米などの穀物の粒は小さくて、炭化しているから簡単に潰れてしまう。だから、いつから穀類の栽培が始まったかは想像するしかなかった。

 

 柳田国男は、亡くなる前年、1961年に、研究成果の総まとめとして、『海上の道』を著した。そこで彼は、弥生以前、縄文の頃、はるか南から沖縄・奄美を経て日本に「米」が伝わってきたという説を、満を持して打ち出した。この説は、今でも、「そうかもね」と一般には理解されている。


 だが、ここ最近のこと、フローテーション法という新しい技術が使われるようになった。遺跡の土を水に入れ、浮いた植物遺体を顕微鏡で一つひとつ見ていくというもの。
 時代の特定された奄美・沖縄の何十という遺跡を、このフローテーション法で見たところ、日本の平安時代に当たる時期まで、一切の穀物は検出されなかった。日本の鎌倉期以降になって、ようやく大麦、小麦、稲、粟が姿を見せたのである。

 

 つまり、柳田国男の「海上の道」は完全に否定されてしまったわけだ。

 それどころか、何千年もの間、奄美・沖縄では、狩猟採集生活が続けられてきたことが証明されたのだ。

 

 これは、世界的に見ても大陸から遠く離れた島で確認された唯一の例だという。狩猟採集が遅れているというわけではない。わざわざ作らずとも、食べ物は十分獲れたということだ。


 鹿児島大学島嶼研の高宮広土氏の編になるものだが、歴史を塗り替える痛快な一冊である。

 



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鹿児島市の郊外にある民家を会社にした「自然を愛する」出版社。自然や環境、鹿児島、奄美の本を作っています。

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