カモ、米を食う

 

 8月21日、出穂。そろそろカモを田んぼから引き上げなければならないのは分かっていた。それでも、まだよかろう、と思っているうちに、ずるずると時は経っていった。

 

 そしてまず、最初の異変が起きた。朝、カモの餌やりに田んぼに寄ったのだが、カモが恐れて近寄らないのだ。いつもは、「早く餌をおくれー」と、ガーガーうるさく集合するのに。ん?なんで。いつもと餌箱の様子が違う。誰かが餌をやった形跡があった。
 集まったカモを棒でつついたか、一羽ちょろまかそうとしたか、連れていた犬がワンワンほえたてたか。いずれにせよ、カモは人生最大の恐ろしい目に遭い、人間不信に陥っていた。

 

「餌をおくれー」と集合するカモ

 

 二番目は、絶望の兆しだ。台風がそれてよかった、稲はちょっと倒れ気味で済んだ、とほっとしたのも束の間。倒れかけた稲にカモが集団で乗っかって、根こそぎ倒しているではないか。穂先の米はない! 米をバリバリ食べていたのだ。米の味をしめたカモは次々に稲を襲い食べ始めた。

 慌てて、罠を仕掛けたのは9月9日。定置網のように一度入ったら、出られないように網を張る。網の周辺には、たんと餌を撒く。

 

 アイガモ農家の橋口さんに、捕らえたカモを運ぶ籠を借りに行ったのだが、いかにも同情した顔で「カモは入らんかもなー」。わざわざ餌におびき寄せられずとも、美味しい米が無限にあるのだから。

 

 案の定、罠には入らない。いつもなら張った当日か翌日には一網打尽にしていたのに。3日経っても、5日経っても入る気配はない。
 宮崎の友人から電話があり、事情を話したら大笑いされた。「アイガモ米をアイガモが食べる。こりゃ愉快、ウケルー」だって。こうしているうちにも、米をバリバリ食べている。悪夢だ。

 

 あまりにも間抜けな話だから、誰にも言わなかったが白状する。以前脱走し確保していたカモを、おとりに使うことにした。足を紐で結んだカモを罠の内側において呼び寄せようという寸法だ。でもきつく結べば血行が悪くなる。手加減して紐を結んだカモを罠に放つ。なんてこった。10秒で紐を振りほどき、仲間の下に戻っていった。

 

 10日後、近所の年寄り2人に加勢を頼んで最後の手段、追い込み漁で何とか捕獲した。今、15羽のカモはトリ小屋の脇のカモ広場で平和に暮らしている。

 

 目出度し、目出度し、とはいかない。昨年までよその5枚の田んぼにいた雀たちが、5枚とも耕作をやめたもんだから、今年はうちの田んぼに居ついてしまったのだ。群れは40羽。朝から晩まで、アイガモ米を食べている。

 

雀に食べられた米


出穂・カメムシ・ネオニコ

 

 毎朝、アイガモの餌やりに田んぼに通うのだが、今日、8月21日、稲の穂が出始めているのに気が付いた。出穂(しゅっすい)だ。田んぼ作りでホッとする瞬間である。

 1反5畝、一斉に穂が出るわけではない。谷間の田んぼだから日当たりが悪い。中でも一番日照時間が多い西側の一画にだけ穂が見える。よく見るとかわいい雄しべを風に揺らしている。

 


 穂の上には、出穂を今か今かと待ち構えていたカメムシが陣取っていた。カメムシは受粉して米粒が膨らみ始めたら、ミルクのような汁を吸う。そうすると、米粒に黒い傷ができてしまう。普通の農家はカメムシを嫌って、この出穂の時期にネオニコ(ネオニコチノイド)の農薬を撒く。


 といっても、カメムシが吸えるのは大量にできる米粒の1、2%に過ぎない。1、2%なら、どうってことはないようだが、米の等級に差が出てしまう。農家は、収入に直結するから撒かないわけにはいかないとくる。

 

 このネオニコ、ミツバチの大量死の原因だと、ヨーロッパでは禁止されているが、日本ではガンガン撒かれている。
 そういえば、鹿児島の蜂飼いたちも、二ホンミツバチがずいぶん減ったと嘆いていた。ミツバチは花の蜜を吸うだけでなく、稲の花粉も幼虫の餌として集める。農薬入りの花粉を食べさせられたミツバチの子供はたまったもんじゃない。イチコロだ。

 

 「おいらは蜂蜜なんか好きじゃないし」なんて言っている場合じゃない。受粉するミツバチがいなくなれば、キュウリもスイカも、ナス、オクラにトマト、これからミカンの季節だ、あらゆる実のなる野菜や果物ができなくなる。野山の草や木も子孫を残せない。こりゃ大変!なことなのだ。


 以前、グリーンピースが、米の等級制度の見直しを訴える署名を集めていた。そりゃそうだ。自然を壊す農薬を使う代わりに、黒い傷米が1、2%混じっていても、文句を言う人はいまい。でも、農薬会社の政治工作もぬかりがないのか、禁止される気配はない。

 ともあれ、あと1週間もすれば、広い田んぼ中に稲穂が出そろうだろう。カメムシたちも大喜びだ。

 

 でも、うちのアイガモたちも黙っちゃいない。朝から晩まで、稲の根元を嘴でつついている。稲の葉や穂についている虫は、揺らされて水面に落ちる。カモたちの御馳走だ。

 

 

 今日、稲穂の上で見かけたカメムシは、カモの魔の手を逃れた貴重な生き残りなのだ。
 カメムシ君、お疲れ様。美味しいミルクがもうじきタンとできるよ。いっぱい吸っておくれ。

 


なんと週休5日制

 

 明治維新150年だの、西郷どんだの耳にするたびに、当時の鹿児島の民衆、とりわけ大多数を占めていた農民たちの暮らしや意識が気にかかる。

 

 私の姓は向原である。今でも、実家の吉利では、何百年も続いてきたであろう「うっがんさあ祭り(内神様祭り)」を毎年11月にやっている。向原、上原、冨ケ原、上内、下内という5つの姓の代表が集まり、神様を崇める。

 

 神様といってもただの石ころ3つなのだが、信心は鰯の頭ならぬ石ころをも神にする。左結のしめ縄とともに、毎年、神様の台座3つをワラで結って作る。まるで鳥の巣みたいだから、皆「といのす」と呼ぶ。けっこう面倒で、いつの間にか私が「といのす」作りの唯一の伝承者になってしまった。

 

 祭りには神主を呼ぶのだが、その祝詞の中に「向原門(かど)の向原祥隆」という文言が入る。「向原門(かど)」。まぎれもなく、鹿児島独特の江戸期の農民支配の仕組み「門割制度」の名残だ。「門」とは、農民たちが怠けないように作られた、5人組のような単位のこと。門ごとに、年貢を幾らと割り当てていた。

 

 この年貢がハンパではない。「八公二民」、収穫の八割を年貢として持って行かれた。

 吉利の殿様小松家の屋敷とその周辺の麓集落から、遠い向こうの原っぱ「向原門」を、我が先祖は割り当てられた。その下に「上原」、そのまた下のちょっと豊かな「冨ケ原」、そして「上内」「下内」という門が続いた。

 

 明治になって姓を付けるとき、鹿児島の農民たちは、たいてい門の名を姓にした。例の三反園氏、どう見ても門の名ですね。

 明治になって四民平等だ、やれやれ、年貢とはおさらばじゃ、とならなかったのが我が鹿児島。他県の武士があっという間に没落していったのに対し、鹿児島の田舎の武士、郷士たちは土地を持っていたおかげで権力関係を維持し、それは敗戦まで続いた。農民にとってみれば年貢が小作の上納に変わったに過ぎない。

 

 戦後は高度成長期という出稼ぎと集団就職の時代を迎え、過疎・廃村の今に繋がって行く。
 何百年昔と同様、土間に座り込んで今も「といのす」を作っているのだが、よくもまあ「八公二民」の年貢で生きてこられたものだと思う。

 

 ここで気が付くのは、それほど税金で持って行かれることのない今なら、5日のうち1日だけ働いて、年貢の分4日遊んでも生きられるということ。それほど豊かな大地なのだ。


 週に2日も働けば十分。

 逆に言えば週休5日制が成り立つのが鹿児島の田舎なのである。

 

 

 

 



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鹿児島市の郊外にある民家を会社にした「自然を愛する」出版社。自然や環境、鹿児島、奄美の本を作っています。

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