変わり者たち


 世の中には変わった人がいるものだ。

 

 日本で旧薩摩藩領の鹿児島・宮崎両県のみに見られる田の神を訪ね回り、1500体余りを写真に収めた医者がいる。『田の神石像・全記録』を小社から刊行したのは今年の4月のことだ。

 

 

 先日は、奄美赴任中のほぼ全ての土日に山野を駆け回り、800種ほどの植物の写真を撮影し、図鑑を出したいという県職員が来た。ただ闇雲に撮ったわけではない。すべての種の花を撮っている。花期は数日、長くても十数日と限られる。風の吹く日は花が揺れ、撮影できない。並の努力ではないことが分かるだろう。


 いずれも本業ではない。多忙な仕事の傍らで時間と金をつぎ込んで、まるで憑かれたように打ち込んでいる。
 そのおかげで本が作れるのだから、小社にとっては有難い変わり者と言える。

 

 今取り掛かっている本は、『写真でつづる アマミノクロウサギの暮らしぶり』だ。夜行性で深い森に棲むため、生態は謎に包まれていた。
 ねぐらを探し当て、夜ごと通う。そのうち春と秋に出産期があることを発見する。繁殖行動、繁殖用の巣穴での出産、授乳、父親の育児参加の様子と、子どもが育つまで追っていく。縄張りを示すマーキング。これは喉を木の幹にこすりつけていく。親子が互いの位置を確かめるための鳴き声発し、メスが気のあるオスにおしっこをひっかけるシーンもある。著者は、排尿ではないため放尿と名付けた。

 

 世界中で誰も見たことのない写真が目白押しだ。

 実は、これらを撮影したウサギのねぐらは、100メートルもある断崖絶壁の際である。おまけに夜は、夜行性のハブが活発に動き回る。まさに命がけの撮影なのである。

 

 奄美の希少生物の撮影で高名な常田守さんが本書に一文を寄せている。
 「今回、この本によって、多くのアマミノクロウサギの生態が明らかになった。人類の知らない彼らの生活が一つひとつ写真に収められ、この本で見ることが出来る。何と幸せなことだろう」

 

 この本の著者は、ほとんど毎夜、山に入っている。ウサギが外出から帰りねぐらに潜り込む夜明け過ぎに、彼も家路につき、ようやく床に就く。
 彼の本業はタクシーの運転手だ。一銭の得にもならないことに情熱を傾け、時には命さえかけていく。先に変わり者と書いたが、ひたむきな求道者というべきかもしれない。

 

 本を作るということは、けた外れの情熱を持つ彼らの人生の表現でもあると、あらためて気づかされた。

 

 

 


我こそは隼人2

 

 沖縄の「和」の文化に対比して、日本、とりわけこの鹿児島は「武」の文化と呼ばれることがある。床の間に沖縄では三線を飾るが、鹿児島では刀を飾るというわけだ。

 

 島津義弘の敵中突破や、明治維新、西南戦争を武器を手に戦った鹿児島の武士団から、外部には「武」の文化は理解されやすい。自分の先祖も一緒に戦ったと、勘違いしている人も多いが、8割近く、大半の庶民は、八公二民の強搾取にあえぎ、「武」の文化とは全く無縁だった。113の外城(郷)には、年貢を徴収し、庶民を常時監視する郷士が配置されていた。幾重にも階層化された武士団の秩序を守るため、物言わぬ兵を作る郷中教育が、士族の子弟には待ち受けていた。

 

 ナチスもびっくりのファシズム専制支配が貫徹していたと言っていい。そんな中で育まれた「武」の文化だ。

 

 考えてみれば、鹿児島の武士団は平安後期、鎌倉期から荘園管理や、島津氏の領国統治のために畿内や関東から配置され、いつの間にか、支配層として住み着いた者たちである。

 

 沖縄とて、大半の庶民は、三線どころか、どこからかやってきた沖縄士族を養うため、牛馬のごとく働いていたに違いない。

 

 そんな中で、ひときわ目を引くのが、鹿児島の田んぼのほとりに佇んでいる田の神像である。豊穣と子孫繁栄への祈りが凝縮されている。

 

 日本全国、あるいは世界中、どこの地にも、山の神、海の神がいた。鹿児島の田の神は山の神の化身と言われる。春に山から下りてきて田を見守り、秋になるとまた山に帰る。
 はるか昔から続く家族の営みと、人々が日々の糧を得るために流す汗を見守る田の神でもあった。
 中央政治に左右されることなく、他国を攻めたり、攻められたりとは無縁の、土に生きる庶民が作り上げたものである。この人達こそが隼人であった。

 

 徳之島のMA−T計画(原発ゴミの再処理工場)を追い払った島民集会の宣言文に「先祖伝来、苦難の歴史をのりこえてきて、今日この美しい徳之島を見るとき……未だ経験したことのないこの恐るべきたくらみを断じて許すことはできない」という一説がある。土と一体化した腹の座った強さにあふれている。
 原発や原発ゴミの最終処分場は、長く続いてきたこの土地での生存を脅かす、まさに「未だ経験したことのない恐るべきたくらみ」である。


 やはり、私たち鹿児島人がこのたくらみを追い払うことができるかどうかは、先祖への思いと、土への愛着を呼び起こすことができるかどうかにかかっていると思う。

 


我こそは隼人1

 

 10月20日、今日も深夜の1時半である。A5判、2段組み、320Pという分厚い本の、巻末の600項目にも及ぶ脚注の校正をしている。

 

 昼間は、会社にいるとしょっちゅう電話が鳴り、その処理に追われる。細々とした編集雑務というやつである。勢い本の校正などは、昼飯を食べながらとか、深夜焼酎を飲みながらとなる。だが、仕事と割り切っているせいか、ちっとも苦にならない。とりわけ今取り掛かっている本などは、ワクワクしながらやっている。
 タイトルは『奄美 日本を求め、ヤマトに抗う島』。戦後の奄美住民運動史である。


 1970年代、高度成長期の真っ只中のころ、石油コンビナートと原発ゴミの再処理工場の立地が、ほぼ同時期に奄美に降ってわいた。この2大テーマが本書の中心である。川内原発立地も進めた金丸三郎県政(67〜77年まで)の時代である。

 

 後の鎌田要人知事は原子力に否定的だったから、原発という大迷惑施設を持ちこんだ金丸三郎さんの名は、再稼働を許した伊藤祐一郎さんと共に、極悪代官として長く記憶にとどめておかなければなりませんね。

 

 それはともかく、川内原発とは裏腹に、奄美の2大迷惑施設計画は葬り去られることになる。国策ともいえる巨大な力に対して勝利したのは、何よりも奄美人というアイデンティティのなせる業としか言いようがない。

 

 1609年島津氏による琉球侵略以降、与論島以北の奄美諸島を琉球王国から切り離し、島津氏が直轄植民地として支配した。「キビを少し齧っただけで死罪」。江戸期の黒糖搾取の過酷さは、今に至るまで語り継がれている。いわば、奄美の人々の「集団的記憶」である。

 

 奄美では、日本のことをヤマトという。散々自分たちを苦しめた「ヤマト」の言うことは信用するな。理不尽な「ヤマト」の要求には徹底的に抵抗する。そんな気風が潜み、時に爆発する。東京での抗議運動中に40人が逮捕されるという事件が、運動にさらに火をつけた。

 

 この本を読みながら思うのは、鹿児島人のアイデンティティについてである。川内原発増設をはじめ、再有望地として浮上している原発ゴミの最終処分場立地問題が、やがて襲い掛かってくる。
 この鹿児島の大地に根を張り、遥か昔から暮らし続けてきたのは先住民隼人である。今も鹿児島人の8割が隼人の末裔と言っていい。私たちが、この大地を守り抜けるかどうかは、先住民隼人としてのアイデンティティに懸かっているのかもしれない。

 

 紙数が尽きた。続きは次回。



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鹿児島市の郊外にある民家を会社にした「自然を愛する」出版社。自然や環境、鹿児島、奄美の本を作っています。

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