自分の五感くらい

 

 このところ連日セリを食べている。
 以前書いた水騒動で作る羽目になった田んぼのセリが順調に育っているのだが、その田んぼの畦が壊れてしまった。直すのに重機を入れるという。セリが押し潰される前に、出来るだけ食べようというわけだ。セリの主役は葉っぱではなく茎や根っこだということを初めて知った。
 葉っぱの見かけは華やかだが、火を通せばクシュンとなる。風味が強く満足度が高いのは茎と根っこなのだ。
 それはともかく、今回は魚の話。
 反原発の運動に関わっていいこともある。南方新社に月に1回か2回、四国伊方原発の近所の住人・井出さんから魚が送られてくる。それも、はらわたとウロコをきれいにとった段ボールひと箱分である。彼は魚の仲買の仕事をしているから、見込み違いで売れ残った魚なのだろうけど、魚好きの私にとってはありがたい話だ。
 先日、私の留守中に届いた魚が、親戚にまでお裾分けされていた。親戚だから気安く聞いてきたのであろう、その夜電話が来た。「もらった魚は、刺身で食べられますか」と。
 魚が来たのは私の留守中だったから見ていない。だから「目が澄んで、身が固かったら大丈夫。ちょっと臭かったら止めたらいいし、食べてみてウゲッときたら吐き出すだけだ」と答えた。普段なら、何にも気にせず親切に教えるのだけど、だんだん教えるのが悲しくなってきた。
 ちょっと待てよ。彼は40過ぎの高校教員である。親戚の教員なら食べ物の良し悪しくらい、自分で判断してほしいもんだ、と。
 たしかに、魚に消費期限は書いてないし、刺身用とか煮物用とかのシールも貼ってはない。だけど、スーパーなんかでシールを貼るのは人間だ。商売のリスクを加味しながら、その人の勘で貼るに過ぎない。だいたい見れば分かる。触ったらなお分かる。匂いを嗅いだら決定的に分かる。
 草刈り機やチェンソーを動かすとき、それが初めてなら人に聞いたり説明書を読んだりしなければならない。だけど、機械と違って、人間が生きていく上で一番大切な食べ物である。たかが魚、ではないのだ。それを40年も生きてきて、自分の五感である視覚、触覚、嗅覚、味覚を信じないで何を頼ろうというのか。
 茨木のり子の詩「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」を言い換えるなら、「自分の五感くらい 自分で磨け」である。
 願わくは、彼には、テストの成績ではなく、子どもの目の輝きを見てこの子は大丈夫だとすぐに分かる教員になって欲しい。


大雨とスッポン

 

 7月3日、朝から降り続く大雨だ。鹿児島市は全戸59万人に避難指示を出し、県内では100万人を超えた。
 市内の小中学校と幾つかの高校は休校となって、早々と翌4日の休みも決めた。ついでに、南方新社も明日は休みにしようと言うと、スタッフからたいそう喜ばれた。
 6時きっかりに帰るスタッフをしり目に、だらだらと仕事をしていると、この大雨の最中、橋口さんからの電話だ。下田、川上で何ヘクタールもの田んぼをこさえる大農家だ。稲荷川の中流が溢れ、田んぼに泥水が流れ込んでいるというニュースが流れていた。咄嗟に、応援要請かと身構えたが、何のことはない。「大きいスッポンが獲れたから、食べるならあげるよ」と来た。川に棲むスッポンが、田んぼに迷い込んだようだ。
 大喜びで貰い受ける返事をした。
 翌朝、雨は大したことはない。市電も市バスも通常通り運行している。学校以外に休みにしていたのは、南方新社だけだったかもしれない。
 まあいいや、とにかく休みだ、と布団に潜り込むと、町内会長からの電話。私の田んぼが大変なことになっているという。
 こりゃ、一大事。小雨の降る中バイクを飛ばし早速駆けつけた。崖が崩れ、田んぼに木々が雪崩れ込んでいる。幸い土砂はあんまり入っていない。アイガモ逃走防止のネットが押し倒され、カモたちはどこかへ消えている。
 でも大丈夫。「オーイ」と声を上げると、ガーガー、ガーガーと大喜びで、どこからともなく走り寄ってきた。と言っても私に懐いているのではなく、「オーイ」の後に撒かれる餌に懐いているのだ。
 ともかく、この日、谷にはチェンソーの音が響き渡り、木々の処理とネットの張り替えで一日が終わった。

 


 大汗をかいた肉体労働の疲れを取るにはスッポン鍋だ。いそいそと橋口さんちへスッポン貰いに出向いた。2キロはある大物だ。会社に戻り、2、3日は泥を吐かした方がよかろうと、唾を飲みながら、発泡スチロールの箱に入れた。逃げたらかなわんと、ふたの上にブロックまで載せておいた。
 翌朝、会社に行くと、ふたが開いているではないか。ブロックも横に転がっている。逃げたのだ。慌てて草むらを捜したが、いない。何人か横一列になって捜す山狩りでもしなければ発見は無理だろう。かくしてスッポン鍋はあっけなく霧消した。
 でも、スッポンとて命懸け。必死にふたをこじ開けたのだ。今頃どこかの水辺にたどり着いているだろう。スッポンの身になれば、自由を取り戻せて、万歳!だ。

 

 

 


やる気なし!

 

 

 一昨日の午後、それまで何ともなかったのに、急に鼻水が流れ出し、目の下の頬の奥と、同じ側の上の歯が激しく痛み出した。熱も出てきたようだ。計ってみると37度1分、私にとっては高熱だ。

 鈍痛の中で、すっかりやる気は萎え、何もする気が起こらない。最近、相次いで60代の知人が亡くなったが、死ぬときはこんな感じかな、と思った。


 残された人が苦労しないように、ちゃんと整理して死んだ方がいい、と聞いたことがある。大抵の人が突然死んでしまうから、残された人が苦労するらしい。ここもよく分からない。整理するのが面倒なら放っておいてもいいではないか。

 

 死んだ後の話だけど、火葬場ですっからかんに焼かれるより、山の中で朽ち、小動物や昆虫の餌になった方が世の命のためになる、なんてことも思った。畑でも、草刈りの後によく草を燃やしているけど、有機物はすべて灰(炭素)になって空中に飛散していく。畑で腐らせれば立派な肥料になるのにね。

 

 しかし考えてみれば、いつ死ぬか分からないのに、世の大半の人があくせく働いているのは不思議な話だ。確かに若いころ、死にリアリティはあまりなかった。だが、62歳になった。すぐ隣にいる。

 

 いま、3月納品の本が7冊立て込んでいる。大学関係だ。3月が年度末だから、それまでに仕上げなければ困るらしい。知り合いに話したら、南方新社も、年度末に急に公共工事で忙しくなるのは土建屋と一緒だと感心された。


 それはともかく、3月に刊行するなら11月中には原稿を出して下さいね、なんてお願いしていたが、そこはわが道を行く教授様たち。12月に1本入ったっきり。あとは全部1月、酷い1本は2月になってから入る始末。催促しなかったのが悪いんだろうが、こちらもすっかり忘れていた。

 

 その手に限って無慈悲な校正が入る。挿入してある英文字がイタリックとそうでないものが混在しているから、すべてイタリックでないものにしてくれと、注文が入ったりする。これは、自分でいちいちチェックするのが面倒だから、全ページ細かく見てね、ということだ。

 一瞬頭に血が上り、えいっと校正紙を放り投げてしまった。

 痛みに耐えきれず、昨日草牟田の飯田耳鼻科に走ったら、案の定、蓄膿だ。こいつは長引きそうだ。

 

 来た仕事は断らないのが南方新社の流儀だ。そうである限り、のんびり仕事ができる日は来そうにない。いつ死ぬか分からないのに、ね。



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鹿児島市の郊外にある民家を会社にした「自然を愛する」出版社。自然や環境、鹿児島、奄美の本を作っています。

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