暮らしを取り戻す

 3月中旬、山桜の季節を迎えた。遠くから見ると、森のあちこちに、そこだけ光が当たっているように、ポッカリ白くなる。
 全山真っ白になることはない。山桜は種を鳥が運ぶ。芽吹くのは太陽の光が届くところに落ちた種だけ。がけ崩れの周辺や、森の中の大木が倒れた後にいち早く発芽し生長する。陽樹といわれる一群の仲間に入る。もちろん杉林なんかに山桜が咲くことはない。

 桜と言えば、ふつう挿し木で育てた苗を川べりや道端に、人の手で植えられた派手なソメイヨシノを指すが、人の手のかからない山桜の方がずっと味わい深い。
 「桜の下で春死なん」と詠んだ西行の見た桜も、山桜だった。

 2月に出した『海辺を食べる図鑑』が順調に出ている。読者からの感想も届いている。初夏から夏にかけて盛期を迎える宝石のような魚、シロギスの項にこう書いた。
 「昔は干潮の時、河口の岩の多い場所でゴカイを掘り、それを餌に釣るものだった。最近ではゴカイは買うものになった。ここでも、手間と時間を引き換えに大事な生活技術を失ってしまった」

 これに大分からメッセージが来た。
 「年老いた父はキス釣りがなによりの楽しみで、死ぬまで行っていました。ゴカイも自分で掘っていました。500円で山盛りのゴカイが買えると言っても、自分で掘り続けました。
 私は今、冬場の暖房に薪ストーブを使っていますが、薪は自分で割っています。薪割り機を買えば手っ取り早いのですが、この楽しみを手離したくはないのです」

 私は本で、効率優先が生活技術を奪っていく現状を嘆いたのだが、「楽しみを手離したくない」の一文で目からうろこが落ちる思いがした。

 釣ることを目的にするなら、釣り具屋でゴカイを買えばいい。食べるのが目的なら、魚屋で買えばいい。もっと楽をするなら、すし屋で握ってもらい、天ぷら屋で揚げてもらったらいい。
 だが、食べるのが最終目的だったとしても、圧倒的に長く、しかも釣り全部を楽しめるのは、ゴカイ採りからなのだ。こう考えると、お金と引き換えに私たちが本当になくしているのは、生活技術もさることながら、暮らしの楽しみだということに思い至る。

 あくせく働き、お金を手にし、そのお金が多いほど豊かになったと錯覚しがちだ。だが、本当はお金を使えば使うほど、人生の楽しみを片っ端から奪われる哀れな奴隷になり下がっていくということなのである。

 人生を楽しみたかったら、まずゴカイから獲るべし!なのだ。

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鹿児島市の郊外にある民家を会社にした「自然を愛する」出版社。自然や環境、鹿児島、奄美の本を作っています。

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