山分けの論理

 

 南日本文化賞の副賞50万円の大半が、シロアリ退治費用に消えた。いくらも残らないお金の使い道として、みんなで美味しいものでも食べに行こうかと提案したら、現金の方がいいという。まったく、もう。
 育児休業中のスタッフにも分けたのだが、金額が少なかったためか「おこぼれに感謝」と返ってきた。おこぼれではなく、山分けの一山だったのに。「おこぼれ」と「山分け」は、天と地ほども違う。

 

 山分けといえば、懐かしい思い出がある。私は小学校の4年まで市来に住んでいた。吹上浜の北端に位置する広い砂浜が格好の遊び場だった。打ち寄せる波と競争しながら、砂の船を作ったものだ。

 

 そんな時、地引き網が始まることがあった。小さい舟が網を沖にぐるりと入れていく。その網の両端の綱を引いていくわけだ。
 引いているのか、ぶら下がっているのか分からないような小学生も、引き手に加わった。手で直接引くわけではない。紐の片方を腰に巻き、もう片方の紐の先に結んである拳くらいの石を引き綱に絡めて、波打ち際から後ろ向きに海岸を上っていく。かなり上の、綱を丸く束ねてあるところまで引いたら石をほどき、波打ち際まで戻って石を絡め、また、後ろ向きに上っていく。繰り返している内に、やがて網が見えてくる。

 

 大人たちも緊張するときが来た。大きい魚が脱出しようと走り回り、飛び跳ねる。網と砂地の間に隙間があれば、そこから逃げてしまう。そうはさせじと隙間を埋めていく。最後の詰めだ、息が抜けない。引き手にも力が入る。ついには袋状の網に、魚がいっぱい入って引き揚げられる。

 

 それから獲った魚の分配が始まる。砂の上に人数分、同じくらいの大きさの魚の山が作られる。男も女も子どもも関係なく、一山ずつ持って帰るのだ。
 1匹だけ入ったタイとか、どでかいエイといった特別な魚は、舟や網の持ち主であろう、彼らの特典だった。
 いずれにしろ、この時「山分け」というものを知った。この一山の魚が母の手で料理され、一家の夕餉を飾ったとき、何とも誇らしく思ったものだ。小学生にして、気持ちだけは一人前の海の男になっていた。

 

 もし、働きに応じて配ろうとすれば若い青年など、子どもの何倍にもなっていたはずだ。でも、そんなに食べられないし、冷蔵庫などなかった頃だから腐らせるだけだ。
 「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という分配の理想形を、大人になってから教わるのだけど、海辺の村では、ずっと昔から当たり前のようにやられていたことだった。


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鹿児島市の郊外にある民家を会社にした「自然を愛する」出版社。自然や環境、鹿児島、奄美の本を作っています。

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