我こそは隼人2

 

 沖縄の「和」の文化に対比して、日本、とりわけこの鹿児島は「武」の文化と呼ばれることがある。床の間に沖縄では三線を飾るが、鹿児島では刀を飾るというわけだ。

 

 島津義弘の敵中突破や、明治維新、西南戦争を武器を手に戦った鹿児島の武士団から、外部には「武」の文化は理解されやすい。自分の先祖も一緒に戦ったと、勘違いしている人も多いが、8割近く、大半の庶民は、八公二民の強搾取にあえぎ、「武」の文化とは全く無縁だった。113の外城(郷)には、年貢を徴収し、庶民を常時監視する郷士が配置されていた。幾重にも階層化された武士団の秩序を守るため、物言わぬ兵を作る郷中教育が、士族の子弟には待ち受けていた。

 

 ナチスもびっくりのファシズム専制支配が貫徹していたと言っていい。そんな中で育まれた「武」の文化だ。

 

 考えてみれば、鹿児島の武士団は平安後期、鎌倉期から荘園管理や、島津氏の領国統治のために畿内や関東から配置され、いつの間にか、支配層として住み着いた者たちである。

 

 沖縄とて、大半の庶民は、三線どころか、どこからかやってきた沖縄士族を養うため、牛馬のごとく働いていたに違いない。

 

 そんな中で、ひときわ目を引くのが、鹿児島の田んぼのほとりに佇んでいる田の神像である。豊穣と子孫繁栄への祈りが凝縮されている。

 

 日本全国、あるいは世界中、どこの地にも、山の神、海の神がいた。鹿児島の田の神は山の神の化身と言われる。春に山から下りてきて田を見守り、秋になるとまた山に帰る。
 はるか昔から続く家族の営みと、人々が日々の糧を得るために流す汗を見守る田の神でもあった。
 中央政治に左右されることなく、他国を攻めたり、攻められたりとは無縁の、土に生きる庶民が作り上げたものである。この人達こそが隼人であった。

 

 徳之島のMA−T計画(原発ゴミの再処理工場)を追い払った島民集会の宣言文に「先祖伝来、苦難の歴史をのりこえてきて、今日この美しい徳之島を見るとき……未だ経験したことのないこの恐るべきたくらみを断じて許すことはできない」という一説がある。土と一体化した腹の座った強さにあふれている。
 原発や原発ゴミの最終処分場は、長く続いてきたこの土地での生存を脅かす、まさに「未だ経験したことのない恐るべきたくらみ」である。


 やはり、私たち鹿児島人がこのたくらみを追い払うことができるかどうかは、先祖への思いと、土への愛着を呼び起こすことができるかどうかにかかっていると思う。

 


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鹿児島市の郊外にある民家を会社にした「自然を愛する」出版社。自然や環境、鹿児島、奄美の本を作っています。

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