打ち捨てられた遺体

 

 『北朝鮮墓参記』という原稿が舞い込んできた。

 戦争中、父親の鉄道関係の仕事の都合で一家は北朝鮮で暮らし、著者もそこで生まれた。戦争に負けると、ソ連軍が進駐し、一家は日本を目指す。翌年6月、やっと鹿児島に帰り着いたものの、9人家族のうち祖母と父、幼い弟2人、合わせて4人が戦後半年のうちに亡くなっていた。とりわけ、祖母と父は、満足に葬ることもできず、打ち捨てるように帰ってきたという。

 

 4人の眠る地をもう一度訪ねたいという願いが、87歳になってようやく実現したのだ。

 肉親の死、あるいは遺体というものが、そこまで人を駆り立てるものだと、あらためて思った。

 

 

 ちょうど手掛けている『奄美の復帰運動と保健福祉的地域再生』という本に、戦争中、奄美大島大和村の山中にグラマンが墜落した話があった。

 戦後、奄美は米軍政下におかれる。すぐに軍政府が遺体の調査に向かうと、乗員3人の遺体は地元の人達が丁寧に葬り、その場に十字架まで立てていた。軍政府の役人は、村人にいたく感謝したという。

 敵兵でありながら、きちんと弔った島の人の心根を思わずにいられない。

 

 

 それに引き換え、とでも言いたくなる話が、足もとにもあった。

 南方新社は、下田のシラス台地の上に事務所を置く。その崖下には、七窪水源地がある。戦前、市内の水道のほとんどを賄っていた水源地だ。

 1945年、終戦の年の6月に鹿児島市街地も大規模な空襲に晒された。幸い被災を免れた市役所の重要書類を疎開させようと計画されたのが、七窪水源地の崖であった。崖に横穴を掘って保管庫にしようというもの。

 ところがその建設中、7月27日にまたも空襲があり、あろうことか、水源地も標的になって4発の爆弾が落とされた。米軍も市民に打撃を与えようとこの水源地を狙ったのだろう。

 この七窪水源地爆撃で、地元民数名とともに、朝鮮人の作業員十数名も死んでしまった。

 ときは7月末、遺体の腐敗は進む。もちろん日本人は墓に葬られたのだが、朝鮮人の遺体がどうなったかは分からない。伊敷の45連隊の兵隊たちが水源地の復旧作業をしたというが、おそらく、その辺りに埋めたに違いない。(『七窪水源地爆撃記録』南方新社より)

 

 

 ふるさとには、親兄弟はもちろん、妻子もいただろう。戦後74年経った今、死んだ朝鮮人の名はおろか、その事実さえほとんど知られず、遺体は打ち捨てられたままだ。

 せめて、慰霊碑だけでも作れないだろうかと思う。

 


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鹿児島市の郊外にある民家を会社にした「自然を愛する」出版社。自然や環境、鹿児島、奄美の本を作っています。

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