自民党の裏金は大ごとになった。でもここに、悪うござんした、辞めます、という議員がいないのはどういうこと? 誰でも悪いことをする。金があれば、ばれないように貯め込もうという気も分かる。
だが、悪事にはリスクが伴い、露見したら制裁を甘んじて受けるというのがこの世の掟。
いまでも語り継がれる天下の大泥棒がいる。ねずみ小僧次郎吉だ。大名屋敷を襲い、奪った金を庶民にばらまいたのだが、捕まれば死罪が待っていたにもかかわらずやってのけたところが、庶民の喝さいを浴びた第一の理由だ。
こっそり悪事を働き、自分のために金を貯め込み、ばれても議員に居座るなんて、掟破りも甚だしい。村八分、最低でも選挙権被選挙権の剥奪だ。そう思わないかい。
でも、悪い奴は反省したふりをして悪事を重ねるもの。先日名古屋の友人との電話で、「次の選挙でもきっと通るんだろうな、そして戦争準備にひた走るってわけさ」と、投げやりに話したら、「それは学習性無気力って言うんだ。鼻をつまんででも自民党以外に入れなきゃダメ」と諭された。
学習性無気力! なるほど、新鮮な言葉だ。下がる一方の投票率を見たら、この学習性無気力が日本中を幾重にも覆っているように思える。
この2月、びっくりするような本を刊行した。『非暴力直接行動が世界を変える ―核廃絶から気候変動まで、一女性の軌跡―』だ。
著者はイギリス人、アンジー・ゼルター。平和運動家の彼女は、東チモールで大量虐殺を繰り返していたインドネシア政府にイギリスから輸出されるホーク戦闘機の格納庫に侵入し、コックピットをハンマーで破壊(非武器化)した。またある時は、核兵器を搭載する原子力潜水艦の実験施設に侵入し、核制御システムを破壊した。
いずれも無罪を勝ち取ったのはすごい。秩序派の判事はアンジーに批判的だったが、陪審員は無罪の評決をした。活動の範囲は、イギリスのみならず世界中だ。そして世界各国で約200回逮捕されている。
ピースボート共同代表、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)国際運営委員 川崎哲さんが推薦のことばを寄せた。「日本でも、国家の大きなかけ声が人びとを萎縮させ、社会に沈黙と忖度を蔓延させています。そうした中にあって、国際法を使い、仲間と計画して、軽やかに街に出て、体を張り、素手で社会を変えてみせるアンジーさんの作法に、学ぶこと大です」
無気力になりそうな昨今だが、力と知恵満載の本だ。
『非暴力直接行動が世界を変える』
著者:アンジー・ゼルター
訳者:大津留公彦、川島めぐみ、豊島耕一
仕様:四六判、326ページ
定価:本体2,300円+税
1月1日、元旦にとんでもないことが起きてしまった。能登半島地震だ。マグニチュード7.6、震度7を記録した。テレビでは、その夜ずっと火の海となった輪島の街が流されていた。
私が一番気になったのは志賀原発だ。2011年の東日本大震災以降、停止したまま。停まってから12年も経っているから使用済み燃料の温度もだいぶ下がっている。プールの水が抜けない限り大丈夫だろうと思った。でも運転中だったら、おそらく日本は終わっていただろう。
志賀原発は川内原発と違う型の沸騰水型原子炉だ。70気圧、280度の水が循環する。配管には何トンもの荷重がかかる。何といっても70気圧だ。地震の揺れで、少しでもひび割れができたなら、風船が弾けるように一気に水が噴き出して大規模に破断する。
水が抜けたら、空焚きになって炉心溶融(メルトダウン)に至る。そして爆発!
実は昨年2023年3月、この志賀原発の活断層に問題なしと規制委員会は判断している。地震の1カ月前の11月28日には、経団連の戸倉会長がこの原発をわざわざ訪ね、「早期の再稼働を期待したい」と発言し、圧力をかけていた。まさに再稼働目前だった。運が良かったというほかない。
揺れの中心、珠洲市にも原発話があった。北陸、中部、関西の電力三社による共同事業として浮上していた。住民の強い反対運動でようやく2003年に凍結となったが、これが稼働していたら確実に日本は終わっていた。
放射能の9割が太平洋に飛んだ福島事故と違い、能登半島発の放射能は偏西風で日本の陸地を覆う。東京まで十数時間で届いてしまう。
政府は混乱を嫌い、簡単には発表しないだろう。ようやく避難が始まるのはかなり被曝した後。
悲惨なのは能登の住民。60カ所もの土砂崩れ、無数の家屋の倒壊に放射能からの避難なんて無理。10日経っても孤立した人が3000人を超えていた。濃い放射能を散々浴びてから遅々とした避難が始まることになる。
こうして福島とは比較にならないほど多くの人が被曝し、やがて日本の中部以北は無人の地となる。
川内原発のすぐ近くには、甑断層、甑海峡中央断層が伸びている。国の予測では、マグニチュード7.5。断層がもっと原発側に伸びている可能性もある。川内は加圧水型で157気圧。空焚き30分で炉心溶融と報告したのは九電だ。
地獄は、足元に大きく口を広げている。それでも原発を動かすというのは、余りにも吞気。言葉を変えるなら大間抜けだ。
2013年、国の地震調査委員会が、それまでの九電評価の活断層を「余りにも酷い」とのコメント付きで大幅に見直した。
九電M6.8→国M7.5となり、さらに原発よりに伸びる可能性も指摘した。その決着はついていない。
]]>東京からUターン
ちょうど30年前、私の暮らしは大きく変わった。92年8月、東京からUターンしたのだ。35歳だった。
東京時代、仕事の移動には地下鉄を使っていた。客先に訪問予約を入れるから、渋滞のない地下鉄は所要時間が読めて便利だった。だが、月に1回くらいだろうか、「人身事故」が起こり大幅に遅れた。「事故処理が終わり次第、運行を開始する」とアナウンスは続いた。やれやれ、スケジュールが狂ってしまう、と迷惑がったものだ。同乗の誰もが、またかという顔をし、時計を気にした。
そのうち、「人身事故」が飛び込み自殺であることがわかる。事故処理とは、バラバラになった遺体の回収作業だ。東京で仕事をするということは、人の死を何とも思わなくなることだと気がついた。
Uターン後の95年には、地下鉄サリン事件が起こった。電車内に猛毒のサリンが撒かれ、16人が死に、6300人が負傷した。オウム真理教の仕業だ。東京の地下鉄の通路では、虚ろな眼をした幾千幾万もの人の群れが、憑かれたように真っすぐに進んでいた。事件を耳にしたとき、人の生き死にに麻痺した東京で起こるべくして起きた事件だと思った。
人の死に麻痺するどころか、自然のかけらもない、人工物だらけの東京で、まともな子育てなどできるはずがないとUターンしたわけだ。
もちろん、理由はそれだけではない。歳を取れば取るほど新しいことには億劫になる。40歳を過ぎたら東京から抜けられなくなると思った。
デビュー作は『滅びゆく鹿児島』
Uターンして1年半後、94年4月27日、鹿児島市泉町に事務所を借り、南方新社を設立した。かといってすぐに本が出せるはずもない。
1年余り後の95年7月に、デビュー作『滅びゆく鹿児島』を刊行する。取り上げた問題は、農薬汚染、埋め立て、川内原発、8・6水害を機に破壊されようとしている石橋、子供不在の教育、男尊女卑、公営ギャンブル、行き場のない農業、奄美の文化と経済である。
当時、鹿児島の一番店、天文館にあった春苑堂本店の湯田店長が一気に150冊を仕入れ、入口すぐの一番目立つところに平積み4面、塔よ倒れよ、というほど高く積み上げてくれた。これは今でも鮮明に覚えている。
湯田さんが、特に本の内容に共鳴したわけではない。鹿児島に新しい出版社が登場したことを祝ってくれたのだ。
「これで反権力の南方新社で決まりだな」とも言ってくれた。別に反権力を謳ったわけでもなく、当たり前におかしいことはおかしいと言いたかっただけだ。
初刷りの4000部があっという間に完売したことで、私の言いたいことが独りよがりではなく、出版を続けていけるという自信になった。
第2弾は、同年12月刊行の『かごしま西田橋』である。何の根拠もなく6000部を刷った。これが完売した時、西田橋は残ると思ったのだ。ところが翌96年の2月には西田橋の解体が開始し、大量に売れ残った。
売れ残りは販売期間だけが原因ではなかった。本を売らなければならない私自身が、保存運動に突っ込んでしまったのだ。
1996年2月21日、西田橋に削岩機
8・6水害では、甲突川五石橋のうち、新上橋と武之橋が壊れた。水害に耐えた玉江橋に続いて高麗橋が解体されたのは95年2月18日。5月からは最後の西田橋保存に向けて県民投票条例の署名運動が始まった。法定数を大きく超える4万3958筆が集まり、臨時県議会へ。11月10日の最終本会議の結果は、なんと50対1で否決。共産党議員1人だけの賛成だった。
舞台は、県指定文化財である西田橋の現状変更を認めるかどうかを決める県文化財保護審議会に移る。ここはさすがに解体反対が多数を占めたが、11月27日にまとめられた結論は、県土木部の強引な主張で両論併記となってしまう。万事休す、だ。
だが、どうしても諦めきれなかった私は、12月、世論調査を企画した。鹿児島大学政治学教室の平井一臣教授に相談し、無作為に抽出した1118人を対象に電話。結果は「県民投票すべきだった」が50.4%。「県民投票は必要なかった」は16.5%。「解体に反対」49.2%。「解体に賛成」44.6%。
これをきっかけに、あくまで西田橋の現地保存の道を探ろうと、2月12日に市民集会とデモを実施。800人が参加した。
2月17日からは私を含め4人のメンバーが無期限のハンストに突入した。極寒の中、西田橋のたもとにテントを張って泊まり込んだ。北畠清仁氏のハンスト突入宣言文は格調高く、今読んでも震える。
だが、県当局は日程を変えることなく2月21日、解体に向けて削岩機を打ち込んだ。
ハンストは、24日には自主的に解いたが、やりきれない思いは残った。
それにしても、この石橋保存運動はよくぞここまでというぐらいに広範な支持を得ていった。私が関わったのは、最後のごく一部分である。
運動を牽引していった都築三郎(故)、松原武実、芳村泰資、浜田美樹、石澤美智子、木原安姝子、児玉澄子(故)、西村輝子(故)、?松基、萩原貞行の各氏の名前は忘れられない。
その中から8・6ニュースが生まれ、今でも続き、南方新社と同じ30周年を迎える。
利権政治と事なかれ主義の横溢する鹿児島で、8・6ニュースは、未来と真実を求める者たちの夜道を照らす灯火なのである。
解体直前の高麗橋上に陣取る市民(『かごしま西田橋』より。撮影:樋渡直竹)
西田橋解体直前のハンスト。後ろ姿だが、萩原、橋口、久保の各氏が写っている
在りし日の西田橋(『かごしま西田橋』表紙カバー)
先日、新聞でほほえましい記事に出合った。奄美の小さな小学校に魚の専門家が訪れ、擬態の不思議を教えたというもの。
たしかに、カサゴ(アラカブ)は岩や海藻に紛れやすい色形をしているし、カレイやヒラメは砂地の海底に張り付いていれば、見つけられない。鹿児島の堤防でも、海をのぞいてみれば、ヒラヒラした枯れ葉と思いきや、ナンヨウツバメウオの幼魚だったりする。うん、ほのぼの。
だが、読み進めるうちに、ン?となった。子どもたちがひときわ感心したのが、小魚たちが群れて大きな魚に見せかけて(擬態して)捕食者から身を守っているというくだり。以前から耳にしていたが、あらためてホンマカイナ、と思った。
釣りをする人には常識なのだが、イワシなんかの小魚の群れには、マグロ、ブリ、カンパチ、カツオなど、青物の捕食者が付きまとう。青物を釣るには小魚の群れ(ナブラ)を狙えというくらいだ。ちなみにナブラとは、青物に追われた多くの小魚が海面から跳ね上がる状態を指す。この小魚を狙って海鳥が集まるから、漁師は海鳥を目当てに狙いの魚を探したりする。青物は、海面まで追い詰めればこっちのもの、小魚の食べ放題、片っ端から食べることになる。
小魚の群れを大きな魚と勘違いして逃げた青物がいた、という話は聞かない。
逆に、群れは大きくなるほど目立って、狙われやすくなるだろう。一人ぼっちの方が断然安全だ。
群れるのは、狙われやすくなるというデメリットを上回るメリットがあるからに違いない。年頃の若者が都会に憧れるように、群れの方が彼女や彼氏を見つけやすいだろう。餌は、ぼーっとしていても仲間が見つけてくれるから付いていけばいい。群れの中では流れができているから、さぼっていても流れに乗れる。
大魚擬態説は、ほとんど通説のようになっているが、ウソじゃないか。そう疑って通説の根拠を探そうとしたが、やはりどこにもない。昔からそう言われていた、としかない。誰かがある日思い付きで言ったことが、まことしやかに語り継がれてきたのだろう。だとしたら、この講師は子どもたちにウソを教えたことになる。
定説にはこの種のうさん臭さが伴うから要注意だ。国の決めることも似たようなもの。
人間はいま、小魚のようにみんなと一緒になりたがっているようだ。一緒の方が確かに安心感はあるだろう。だが、知らぬ間に、全滅の罠にはまっているかもしれない。
鹿児島の岩場にはどこでもいるカサゴ。きびなご餌で釣る。
磯海水浴場で釣ったテンジクガレイ。砂底にいれば見つからないね。
]]>請求代表者 向原祥隆が意見陳述します。
最初に議員の皆さんに聞いてほしいことがあります。
十月四日、私たちは五万人の署名を携え県庁に訪れました。このとき、なんと、担当の地域政策課から裏口の通用門から署名を搬入するように要求されたのです。私たちは唖然としました。五万人の心に裏口から入れと要求したのです。こんなことがあるのでしょうか? 皆さん。
知事が重く受け止めたはずの署名、五万人の心に、知事に直接触れてほしい、私たちはそう願い、九月の頭には知事に直接受け取ってほしい旨、申し入れしました。ところが、当日現れたのは知事でも副知事でもない、部長でも課長でもない、技術補佐の方でした。
私たちはこの臨時議会の前に、知事と議会各会派に意見交換会を申し入れました。自民党の長田さん、公明党の松田さん、県民連合の福司山さん、共産党の平良さん、そして無所属の岩重さん。すぐにお返事をくださいました。あらためて感謝します。
ところが地域政策課は、先の知事の署名受け取り、この意見交換会の申し入れ、両方とも一切返事がありません。待ちかねた私たちが、直前に電話を入れてやっと回答が聞けた有様です。
県民に対する敬意が、みじんもない。本当に驚きました。
本日、知事は、公約に掲げた県民投票に否定的な意見を発言されました。知事は二〇二〇年の知事選挙で「県民の意向を把握するために、必要に応じて県民投票を実施する」と公約し、当選しました。ところが、去年の十二月、専門委の意見が集約できない場合、県民投票を実施すると変えました。県民の意向把握と専門委の意見集約とは次元が違います。後からの、すり替え、です。
そして最終的に本日、公約に掲げた県民投票に否定的な発言。明らかな公約違反です。これは先の地域政策課の対応とつながるものです。県民に対する爪の先ほどの思い、敬意がないから、公約を破っても平然としていられるのです。
県民に対する約束、百三十万人有権者に対する約束を破った。知事は県民を騙して職を得たことになる。私の多くの知人が、県民投票の言葉を信じて投票しています。この県民をないがしろにする行為を、県議会は放置していいんでしょうか? 放置することは同調したことを意味します。議会も、きちんと筋を通してほしい、そう願います。
原発には様々な問題があります。今日は二点だけ申し上げます。
二〇一一年の東日本大震災で、ついに福島第一原発が爆発しました。一度あったことは、二度目もある。当たり前のことです。今日の知事提案でも、何回も「安全を前提に」とありましたが、福島事故以前もそうでした。このまま原発が動き続ければ、大事故は必ず起こります。起こらない理由はないからです。福島の放射能は、九割が偏西風で太平洋に飛んだ。川内原発が大事故を起こせば南九州三県は数日で壊滅します。さらに、偏西風によって九州・西日本は大規模に汚染されます。
もう一つ、川内原発の使用済み燃料です。数年のうちに敷地内のプールは満杯になります。二十年延長のわずか数年後に、この核のゴミ問題が噴出する。分かり切っているこの重大問題を、九州電力は一切明らかにしていません。
こうした数々の問題点に、寿命を超えた老朽原発は拍車をかけます。寿命を超えたペースメーカーを体に埋め込みますか?皆さん。寿命を超えた飛行機に乗りますか?原発も同様に命に係わる機械です。さらに、二十年の運転延長は、生まれたばかりの赤ん坊が二十歳になるまで拘束する大問題です。
多くの県民が署名に賛同したのは、とてつもなく危険な原発が、寿命を超え、さらに長期間運転する重大問題を、今一度立ち止まって判断したいという意志表示なのです。
以下、民主主義と原発について四項目述べます。
第一に、政策決定の構造について。危険性を主張する専門家と、安全だという事業者の双方がいたら、通常行政は安全側を選択します。だが原発の場合だけは違う。危険性を唱える専門家の意見は無視され続け、その結果、利益を追求する電力事業者のやりたい放題になってきた。全く信じられない話です。
第二に、直接請求制度について。県政は通常間接民主主義によって運営されています。だが、ここにわざわざ、地方自治法七四条として、住民の直接の政治参加を保障する条例の直接請求の制度が盛り込まれています。これは、厳しい法的要件を達成し条例が請求されたなら、それを成立させることを前提にしています。
第三に、知事と議員は主権者である県民の意志の代弁者であること。
憲法では国民主権が明示されています。県政の主権者は県民です。そして、県民投票は主権者である県民の意思であることが今回の署名で明示されました。県民の意思の代弁者である知事、議員が、県民の意思を無視して、県民投票条例に反対することは許されません。自らよって立つ選挙民の意思を無視し、ないがしろにすることになるからです。
第四に、今回の臨時県議会は、まさに我が国と鹿児島県の民主主義が問われているということ。今回初めて、県民投票によって川内原発の二十年延長について自ら選択したいと主権者である県民が意思表示しました。県民の意思を専制国家のように無視するのか、それとも主権者の意志として尊重するのか。まさに民主主義が問われているのです。
最後に申し上げます。五万人の署名が集まったわけですが、これには厳しい条件がついています。対面で、しかも二カ月という短期間。これがもっと緩やかだったらもっと多くの署名が集まったと思います。私が個別訪問した場合は八割の方が応じてくれました。単純に計算したら百万人近くが県民投票をやろうと判断をされたはずです。これは議員の皆さんの有権者です。
今回の県民投票条例の請求は、二十年延長に賛成、反対を求めるものではありません。県民投票の実施を求めるものです。県民投票をしない理由はありません。もちろん、県民投票を実施するにあたっては、賛否両論の説明会の実施などが不可欠でしょう。県民投票はもともと知事が言い出したこと。知事の〇×二者択一否定論は、いまさら何を言っているのか、と言うほかありません。
若い方も大勢署名に応じてくれました。積極的に署名を集めた若い方もいます。この若い声を否定し、無視することは鹿児島の未来を潰すことです。何を言ってもダメなんだ、そういう失望を与えます。この鹿児島の未来を若い県民と一緒に作っていくために、歴史に残る誇り高い選択を期待します。
以上をもって意見陳述を終わります。ありがとうございました。
2023.10.23臨時県議会初日朝の県庁前集会
]]> 毎朝田んぼに通っているのだが、私のバイクが到着するとスズメの群れが一斉に飛び立つ。その数、30羽。
毎日毎日、一日中、うちの田んぼの米を食べている。これで大丈夫、と飛ばしたイーグルカイト(鷲の凧)もすっかり正体がばれてしまった。
きっと、勇敢な一羽が試しに田んぼに入ってみて、何だ、張りぼてじゃないかと気が付き、みんなに教えたのだろう。
スズメの餌場と化した田んぼは、ある種の自然災害。諦めるほかない。だが、人間の犯したこと、犯しつつあることは簡単に諦められない。
遂に8月、汚染水が福島原発から流され始めた。一方、いつの頃からか、日本のマスコミから汚染水という言葉は消えた。「処理水」である。
溶け落ちた核燃料に触れた水だ。大量の放射能を含んでいる。アルプスと機械で処理したとはいえ、セシウムやプルトニウムなど完全に除去できるわけではない。ましてや、水素Hと化学的に同じ性質のトリチウム(三重水素)は手つかずだ。
でも、処理したから「処理水」。IAEAという国際機関が認めたから問題ないと、政府は大威張りだ。
安全上の問題を指摘する科学者は多い。北海道がんセンターの西尾正道名誉院長は「人類に対する殺人行為だ」と厳しく非難する。
人間のからだ中の細胞、タンパク質、糖、脂肪などに水素Hが存在する。トリチウム(三重水素)は、体に取り込まれ、簡単に水素Hと置き換わる。そして半減期12.3年で、やがてベータ線を発して崩壊し、ヘリウムになる。
ヘリウムという別物に代わるために細胞は壊れる。さらに、ベータ線は紙一枚で遮断できるというが、至近距離から放たれれば、DNAは切断される。弱いベータ線といえども、分子結合エネルギーの何千倍もの強さを持つ。こうして人間はやがてガンになって死んでしまう。
政府もマスコミも、この内部被ばくの問題は、完全無視だ。
政府も東電も、薄めて流すから大丈夫だと胸を張る。それが通用したのは水俣病以前の話。放射能の粒粒の総量は変わらない。食物連鎖を通じて生態濃縮されることが証明されている。まさに論外。
問題視する中国だけを目の敵にしているが、太平洋に面するオーストラリア、ニュージーランド、多くの太平洋諸諸国も反対の声を上げている。
今、日本のマスコミの「処理水」批判は、漁協との約束違反と風評被害の対策の不十分性だけ。
いったい、どうなっているんだ、この日本は。
2023年9月3日、雄々しく飛んだイーグルカイト(鷲の凧)だった。
]]>
署名の期限は7月30日だった。だが、その後の整理も考えて、7月28日までに署名簿は事務局へ返却、とチラシに書いていた。
7月1日の中間集計以降、集約はしておらず、さっぱり状況はつかめなかった。7月20日を過ぎても事務局に返って来る署名簿はポツポツ。
やばい。これじゃ目標の3万筆には届かないかも。急きょ、7月30日まで一筆でも二筆でも集めてください、と各所に連絡した。
7月30日、昼間の天文館街頭署名のあと吉野のAコープに移動。西日に炙られながら最終日を終えた。
月末近くになって、ようやく集まり始めた署名簿。でも、何筆あるのやら。翌31日から整理が始まった。市町村ごとに分けて、まず署名簿に通し番号を振る。さらに、一筆一筆連番を振っていく。この連番振り、2桁までならどうということはないが、3桁、4桁になるともう大変。最終的に2万2000筆まで行った鹿児島市なんか5桁だ。10000、10001、10002と振っていくから、その苦労も分かろうというもの。
一方で、30日を過ぎて署名簿は大量に集まってきた。8月1日時点で、3万筆超えは確実になった。バンザーイ。ひょっとすると4万筆いくかも。
と、ここで戦線離脱。実は、署名整理初日の7月31日から、なんだか気力が湧かなかった。間違いのないようにと二人組で整理していたが、相棒の吉国君が額に手を当てて、こりゃ、熱があるよ。そうかなー、と翌日8月1日もふらふらしながら番号振り。
8月2日は、会場に行ったものの熱っぽくてだめだ。帰って寝ることにした。熱は38.6度。おー、立派な病人だ。念のためにコロナの検査キットで試してみたら、陰性!
3日も終日ダウン。
4日は熱も下がったので番号振りに復帰。
5日、最終集計だ。どこから湧いてきたのか、何と5万290筆! 予想もしない5万筆の大台に乗ってしまった。
だが、このあたりから周囲の雰囲気が違ってきた。次々にコロナ発症の情報が届き始めたのだ。吉国君をはじめ都合8人。私の濃厚接触者ばかりだ。マズイ。私は、検査キット陰性、診断はされていない。でも、マズイ。だれもが口に出さないが発生源は私だと思っている。なるべく私に近寄らないようにという意志を感じる。
私自身も、ここまで多発すると検査キットに表れなかっただけで、陽性だったと思うほかない。重傷者を聞かなかったのがせめてもの救いだ。
みんなゴメンよ。悪かった。
2023年8月7日、5万290筆を発表した記者会見(鹿児島市役所)
]]> 6月1日、署名運動が始まってから土日はずっと天文館の街頭署名だった。
いつもの場所、献血ルーム前まで軽トラに載せて、長机2台、画板10枚、横断幕に幟2本、署名簿とチラシを運ぶのは私の係。15分前には荷物を運んで準備しなければならない。
今年の梅雨は雨が多かった。積み下ろしでズブズブに濡れて風邪をひき、2、3日のどが痛かった。今から思えばコロナだったかも。
準備が終わって駐車場に軽トラを置き、再び天文館に向かう道すがら、我ながら律義だなあ、まるでどこかの党の専従みたい、と思ったこともある。まあ、おかげで駐車場の管理人のご夫婦ともすっかり顔なじみになって、はい2筆。
ズブズブに濡れたのは人間だけではなかった。長机もだ。長机は表と裏はベニヤ板が張ってある。厚さは1cmほど。四方の縁はてっきり木の棒だと思っていたが、おが屑を固めた棒だった。濡れてグチュグチュ、溶け始めた。完全崩壊の前に、干して、ボンドで固め、ガムテープで水が入らないように補強した。30年前に南方新社を設立したとき1台12,000円で買った長机だ。今回の署名運動で寿命かも。
毎土日の天文館署名だが、7月22日と23日は「おぎおんさあ」のお祭りで中止。代わりに団地署名に向かった。
22日12:00、事務所前に集合。ちょっと早く着いたので、近くのかき氷屋さんの前に並んでいる女性二人組に声をかけた。最初は警戒されたが、話を聞いてくれて二人とも署名。芝生でのんびりしていた二人組の女性に声をかける。オーケー。でも一人は16歳、残念。もう一人は19歳、ゲット。知り合いの畠中コーヒーに顔を出すとマスターがいた。はい署名。後から入ってきた息子さんは、すでに署名済み。感心な青年だ。販売係の女性もしてくれた。スタート前の数分で6筆。気をよくして武岡団地に向かう。
最初に目についた市営住宅がターゲット。5階建て、エレベータなし。気温はどんどん上がって34度。汗だくになりながら回るも半分は空き家。そのまた半分は留守ときた。朝の分を含めて4人で28筆。ぐったり。
この団地には、福島から避難してきた方がいた。協力できてよかった、と言ってくれた。
翌23日、明和の真新しい県営住宅。10階建て、エレベータあり、横に順に回れるのがうれしい。出てきた人の8割は署名してくれた。この日は3人で68筆。
と、こんな具合に、鹿児島全県下で汗みどろの署名運動が展開されている。あと5日だ。
月末最後の天文館街頭署名に出動を待つ軽トラ。普段は農作業用。
濡れてグチュグチュの長机、4辺のおが屑の棒が溶けた。
干して、ボンドで固め、ガムテープで補強した。
]]> 6月1日、ついに川内原発の県民投票条例の署名運動がスタートした。
長い道のりだったが、ともあれ何事もなく20年延長が決まってしまう前に、抵抗する県民の声を公にする構図ができた。よかった、よかった。
会社に集荷に来た郵便局の兄ちゃんに署名を頼んだ。ほいほいと受けてくれたのだが、署名運動のことも寿命を迎える川内原発のことも、何も知らなかった。これもまた現実。
5月にビックリのニュースに触れた。有事に向けて、農水省が食糧の増産命令を出せるように法整備をしているというもの。どこの田舎でも、田んぼや畑をやっているのは、ほとんどが年寄りだ。いったい誰に何を命令しようというのだ、と首をかしげながらよく見ると、またビックリ。花農家に芋を作れと言うんだと。酪農農家にも、牛乳はいいから芋を作れと。
岸田首相の頓珍漢な原発推進政策とこの食糧増産の法整備は同じ文脈でつながる。戦争になれば輸入は止まる。輸入に依存するエネルギーと食糧は、真っ先に確保しなければならない、というわけだ。
私権の制約。戦争準備も、さらに一歩踏み込んだとみていい。
郵便局の兄ちゃんじゃないけど、知らないうちに、悪事は着々と準備されていくんだね。
みんな暮らしと仕事がある。6月は田植えの季節だ。うちのアイガモの田んぼも田植えに突入した。
周りの田んぼは全部年を取りすぎて止めてしまったから、水を引く用水路の準備も全部一人にのしかかってくる。伸び放題の草刈りもひと仕事だが、用水路にたまった土砂をさらうのは大仕事だ。鍬に土を載せて上げるのだが、1m進むだけでフーとなる。10m行くと大汗だ。どうにか終わって、水を通すと、田んぼにどぼどぼと水が入っていく。いつも、この瞬間は何とも言えない。
この6月は、土日は街頭署名や各地の説明会に出向くので、田植えの準備は出勤前に1時間、2時間と少しずつ済ませてきた。田植えが終わっても、カモの網張りやカラス除けの紐張りなど結構やることが多い。というわけで、本日6月22日昼過ぎ、やっとカモ16羽放鳥となった。
夕方見に行ったら、畦にこさえてやったねぐらには一羽もいない。ねぐらの反対側、一番遠くを泳いでいる。泳ぎ疲れて衰弱したカモも2羽。なるほど、カラス対策を強化しようとイーグルカイト(鷲の凧)をねぐらのそばに上げたのが悪かった。カモも猛禽類のイーグルを怖がったのだ。
悪かったね、カモちゃん。みんな元気で泳いでおくれ。
スズメ脅しに抜群の効果を発揮するイーグルカイト。カモも怖がってしまった。
田んぼを泳ぐカモたち。(右上)
車を運転するときラジオをつける。最近、やたらと「当社はSDGsに取り組んでいます」というCMが耳につく。
国連が決めたもので、日本語では「持続可能な開発目標」というらしい。17の目標は、「貧困をなくそう」「クリーンなエネルギー」とかで、いいんじゃないの、なのだが、「開発」がついているところが味噌で、これまで地球をボロボロにしてきた「開発」を免罪する、新しいスローガンじゃないかと、ひねくれ者の私は感じる。
気に入らん!と初めて聞いたときから思ったのだが、何度も聞かされたらイライラしてくる。
人々のささやかな暮らしを、持続可能どころか、ぶち壊しにするのは原発と戦争だ。
まさか、設計寿命を超えた川内原発の運転延長をもくろむ九電は言っていないよな、とホームページを開いたら、「豊かな地球を守るため」原発でCO2を抑制していると、おお威張りだ。軍拡にひた走る岸田首相は、安倍前首相が立ち上げたSDGs推進本部の本部長だ。こりゃだめだ。
世のため人のためと、ラジオCMになけなしの金を払う鹿児島の中小企業があわれに思えてくる。この世の中、訳の分からないことばかりだ。
人間の社会とは違って、生き物の世界では純粋な喜怒哀楽を味わうことができる。
4月末、会社で飼っている採卵用の鶏11羽が全滅した。狸に襲われたのだ。初日が2羽、次が6羽、また1羽、1羽、そして最後の1羽がいなくなった。黙って食われるままにしていたわけではない。その都度、何回も鶏小屋の周りを点検し、侵入可能なところを金網で塞ぎ、板で補修した。
最後の1羽になったとき、会社のスタッフからは、いっそ放し飼いにしたら、という提案もあった。聞く耳を持たない私は、唯一の進入路と見た入口扉の前に、ブロック2個入れたコンテナを置き、鍵もつけた。今度こそ大丈夫、安心していいよ、と残った1羽に声をかけたその夜、重いコンテナをどかし、扉をこじ開けられてしまった。
狸との知恵比べ、完敗だ。すっかり自信をなくした。ガックリ。
肩を落としながらの出勤が続いたが、数日後、うれしい出来事が。
会社ではニホンミツバチを飼っている。雨上がりの午後、ものすごい数のハチが、ブンブン巣箱の周りを飛び回り始めた。ひょっとして、と思ったら、まさにその通り、分蜂が始まったのだ。2000匹ほどか。巣箱の近くの木の幹に蜂玉を作った。
網で捕獲。新しい巣箱に入れたら、気に入ってくれて、今ではすっかり定着している。2群れになった。
ブロック2個入れたコンテナをどかし、扉をこじ開けられた鶏小屋
新しい群れが巣立ったニホンミツバチの巣箱
]]> 毎朝、私が作っているアイガモの田んぼの谷を通って会社に向かう。3月末、息を飲む一瞬があった。
いつも春になればレンゲが咲くのだが、この日は田んぼじゅう真っ赤な絨毯だった。
この田んぼを借りて10年近くになるが、種をまいたことはない。借りる前はずっと荒れていたから、そのずっと昔の種が細々と世代をつないできたのだろう。
借りた初めのころは、あちこちにポッポッと咲く程度だった。年を追うごとに群落が大きくなり、ついに今年は田んぼ全面に咲くに至った。
同じ仲間の作物を続けて植えると連作障害を起こす。例えば、ピーマン、トマト、ジャガイモなんかはナス科。種類が違っても同じ科の作物を植えれば、悪さをする線虫やバクテリアがどんどん増殖してしまう。だから、2回3回と連作は出来ない。
焼酎ブームでカライモが毎年同じ畑で作られているのを目にする。だけど、連作障害を防ぐため、苗を植え付ける前に土壌消毒が必須だ。
田舎に住んでいた母は、周りの畑で土壌消毒が始まると、ピクリンが来る、と大急ぎで窓を閉めていた。ガスが学校に流れ込んで子どもたちがバタバタと倒れたという話も聞いたことがある。
正式名称はクロールピクリン。すぐ分解し塩素ガスを出すので、第一次世界大戦では毒ガスとして使われた。それだけ強い農薬で土中の生き物を殺さなければ連作は出来ない。だが、悪さをする生き物だけでなく、全て殺してしまうから土は死んでしまう。
なぜ、田んぼでは毎年レンゲが咲くのか不思議でならなかった。同じ科どころか、同じ種である。連作障害を起こしても不思議ではない。
ある時、田んぼは毎年水を張るからだと聞いた。酸素が絶たれ、悪い生き物が増えないのだという。なるほどネ。
おまけに、レンゲは空中の窒素を土に取り込んでくれる。小学校の理科で習ったマメ科植物と共生する空中窒素固定細菌というやつのおかげだ。窒素は植物にとって大事な栄養素の一つ。ちなみに、水俣病の原因企業のチッソは、昔の名前は日本窒素肥料株式会社だった。
それはともかく、レンゲを春に咲かす水田稲作は、自然の摂理に沿ったご先祖様の知恵だったわけだ。
子どものころ、レンゲを刈って耕作用の牛の餌にもしていた。最近では、牛を飼う農家はなく、化学肥料を撒くからレンゲの咲く田んぼはどんどん少なくなっている。
ここでも、伝えられてきた知恵が消えようとしている。
2023年3月28日。田んぼはレンゲが満開だ。
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会社の代表たるもの、見過ごせない。棒を持って追い払うことにした。「こらっ」と声を上げながら棒であちこち叩きながら近づくと、ちょっと逃げる。まだ子供だ。人間でいえば中学1年、体重は30キロくらいか。
でも、居つかれたら困る。人間は恐ろしいものだと印象付けねばならない。小屋の裏手の山に追い込み、隣の竹林まで追い回した。「こらーっ」「こらーっ」。石ころも投げた。
子供とはいえ、さすがに速い。野山を駆け回っているから足腰は鍛えられている。オリンピックに出場したら金メダル間違いない。
すっかり追い払ったつもりでいたが、翌火曜日、また鶏小屋の前に来た。1メートルくらいに近づいても逃げる素振りはない。警戒しながら土を掘り返している。人間に大怪我をさせる牙もまだない。でも、鶏の餌当番の女性は怖がって近づかない。仕方ないから私が餌当番だ。
水曜日もまだいる。定期の集金に寄った銀行員が、遂にイノシシまで飼うようになったんですねと言う。玄関前の雨水を溜めるタライの水を飲んでいたらしい。南方新社は鶏やアイガモ、ミツバチまで飼っているからネ。可愛いだろう、と言うと、放し飼いをすっかり信じた。
木曜日の朝は、鶏小屋の横の林の中で、腹ばいになって寝ていた。「おーい」と声をかけると、片目を開けて、またつぶった。寝顔も可愛い。すっかり煩悩がついた。
金曜日には「チビ」と名前を付けた。だけど、チビと呼んでも自分のこととは思わず、穴掘りに夢中になっていた。
1週間居ついたチビだが、翌週の月曜日には姿を消した。旅に出たようだ。
会社の下には七窪水源地があり、森が守られている。2年前からこの谷にイノシシが住み着いた。農家に頼まれた猟師が、何頭か仕留めたとも聞いていた。去年の12月の夜、谷を車で走っていたら、子供のイノシシが3頭道を歩いていた。子供だけだったから、親は漁師にやられたのだろう。
年が明けると、谷から上がって来たのか、会社の近所でもイノシシが穴を掘った跡が頻出していた。最近では、子供のイノシシ2頭が罠にかかったと近所の爺さんに聞いていた。
となると、チビは親兄弟を全部失って一人ぼっちなのだろう。姿を消してから、毎日出勤するとチビ、チビと声をかけ、捜すのが日課になった。
どこにいるのか、チビ。
人間から逃げおおせておくれ。元気でいろよー。
2023年3月1日。会社の中庭を散歩するチビ。
この庭では、10数年前ジャニーズの手越祐也が訪れ、ポカリの兄弟、メッツという飲料のCM撮影が行われた。
]]> 過去のいくつかの経験が重なって、ある日突然閃くことがある。
2年前、南方新社にイタチが住み着いて大騒ぎになった。事務所のあちこちに糞を残すわ、おしっこを垂れるわで、本や布団が山ほどゴミになってしまった。頼むから出ていってくれと最後の手段に使ったのが、ニシムタから大量に買い込んで、あちこちに置いた害獣忌避剤。主成分はクレオソートと書いてあった。
クレオソートは、大雑把に言うと木が燃えるときに出てくる液体だ。山火事を嫌うイタチが逃げていくのだと聞いた。鹿児島で山火事なんて聞いたことがないから、どのイタチも怖い思いは未経験のはず。ということは遺伝子に組み込まれた本能ともいえる。
昨年の夏前には、ブヨにかまれてカユイカユイ、酷い目にあった。蚊やブヨが燃える草の煙を嫌うことは知っていた。平安の昔から、蚊遣火と言って夕になると煙を家の中に流し込むものだった。これも、虫たちが山火事を恐れる本能を利用したとみることができる。
もう一つある。スーパーで買ったサバをしめ鯖にして食べたら、あろうことか寄生虫のアニサキスに当たってしまった。
蕁麻疹はすぐに引いたが、翌朝胃がしくしく。ネットで調べると、胃に深く食い込んで医者が内視鏡で取ろうとしても取れないとき、正露丸(クレオソート)を飲むと、この虫はやる気をなくして出てくるらしい。薬局で買った正露丸を飲んで3日目、しくしくはやんだ。
アニサキスは線虫である。線虫と言えば、畑でジャガイモやカライモを作れば必ず寄ってきて、イモの表面をガザガザにするやつだ。
ここからは私の推測だが、アニサキスの先祖の線虫は山にいた。大雨で山の土もろとも流され海にたどり着き、なんかの拍子にサバに飲み込まれ、お腹に住み着くようになった。山にいたときは山火事になれば土深く潜ってしのいでいた。サバの腹の中では山火事には合わないが、遺伝子に組み込まれた恐怖を思い出させるクレオソートだけは耐えられない、というわけだ。
線虫からブヨなどの昆虫、そして哺乳類とつながる山火事の恐怖。もっと言えば、陸上生物すべてに共通する恐怖が山火事だということ。
奄美の友人とこんな話をするうちに、未開発の毒蛇ハブの忌避剤もクレーソートで出来るに違いない、というアイデアが生まれた。
これは凄い!大儲け間違いなし!いつか、大々的に売り出そう。それまで絶対秘密だぞ! 固い約束をしたが、ここで、ついばらしてしまった。
サバなどの内臓に寄生するアニサキス
ジャガイモ、カライモ、ニンジンの表面を傷つけるネコブセンチュウ
南方新社から刊行した『毒蛇ハブ』。ハブのことならお任せ。
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街の書店が消えて久しい。
戦後、商店街で開業した書店は大いに繁盛した。だが、アメリカ式のスーパーが登場し、さらに郊外に大型のショッピングモールができると、商店街もろとも街の書店も吹き飛んでいった。90年代後半から、2000年代にかけてのことだ。
南方新社が創業したのは、1994年、街の書店がぎりぎり生き残っていた時代だ。一つの本の売り上げ冊数は、書店の数に比例した。今はかつての半分といったところか。
売り上げ冊数が半減しても、定価を2倍に設定できれば、売り上げは維持できる。だが、2倍とまでいかなくとも、定価を上げれば読者は敬遠し、売り上げ冊数は更に減っていく。まさに、負のスパイラル(悪循環)だ。日本中の出版社がこの構造の中で苦闘している。
そんな中で、一つだけ信条というものがあるとすれば、世の中になかった本には必ず読者が付いてくる、というものだ。
最近、そんな本を2冊出した。
一つは、『九州のシダ植物検索図鑑』。シダだ。とにかく地味な植物である。胞子で繁殖するから花は咲かない。ジメジメした暗いところに生える。似た種が多く区別がむつかしい。
実は、鹿児島大学総合博物館には、大正時代から昭和中期までを中心に1万9千点のシダ標本が眠っていた。牧野富太郎、倉田悟、田川基二、初島住彦といった錚々たる植物学者が自ら採集した標本たちだ。
狂ったような開発が始まる以前の標本だから、現在では絶滅した種や、めったに見ることのできない絶滅危惧種が目白押しだ。この標本を基に、本書は九州産のシダをほとんど網羅する699種を載せている。
もう一つは、『日本産カワゴケソウ科全6種』である。カワゴケソウ科は世界に数百種存在するが、日本では、鹿児島と宮崎の一部にだけ2属6種が分布する。
研究者も鹿児島くんだりまで来るのは面倒だからか、発見後100年になろうしているのに、生活史は謎のまま。本書は、初めて花期を含んだ生態の各段階を鮮明画像で報告する。
シダは川原勝征さん、カワゴケソウは大工園認さんの手になる。二人とも鹿児島のアマチュア研究者だ。
いずれも、このレベルの本は二度と世に出ることはない。
どうだ、参ったか、とオールカラー、B5判の大型本、定価は本体8000円+税にした。高い値付けだが、本の価値と著者の執念は圧倒的だ。
負のスパイラルなど、吹き飛ばしてくれるに違いない。
生き物はすべて、自分が生き延びることを最優先にする。もう一つは、種そのものの勢力が大きくなることを目指す。個の生存と種の繫栄だ。
餌の取り合いや繁殖行動で仲間を攻撃することはある。南方新社で飼っているニワトリだって、餌の時間は大騒ぎになる。採卵用のメス10羽とオスを2羽入れているが、オス同士はメスの奪い合いで喧嘩をし、いつの間にか弱いほうのオスは、夜寝るときだって仲間外れにされ、一人ぼっちになった。だが、どんな生き物をみても、同じ種の仲間を全滅させるような行動に出ることはない。
人間の戦争は、穀物生産を始めたときからだと聞いた。保存のきく穀物が富の蓄積を生み、その奪い合いから他の集団を殺すようになった。
戦争は、いわば人間の欲望をエネルギー源としているわけだ。
世界市場は、今やアメリカと中国に二分されようとしている。世界の富を独占してきたアメリカから見れば、中国は目障りで仕方ないだろう。だから戦争に引きずり込んで、中国を消耗させようとする。でも、自分も消耗するのは嫌だから、子分の日本を使う。何でも言うことを聞くからネ、日本は。
日本が準備に張り切れば張り切るほど、いざ戦争になって頑張るほど、アメリカの軍事産業は暴利を得る。ウクライナで空前の巨利を得た彼らは、バイデンに耳打ちし、利益の一部をバックマージンとしてポッケに入れるバイデンも、中国への挑発に躍起になるということか。
岸田首相は狂ったように軍拡路線に突き進んでいる。もっとも、20年ほど前から盗聴法、秘密保護法、共謀罪法、安保法制、マイナンバーカード等、戦争準備と国民統合の法整備を進めてきた。敵基地攻撃などと平気で口にするいま、総仕上げの段階だ。
すでに、日中戦争は秒読み段階とみていい。紛らわしいのは、戦争はいつも「平和のため」という仮面をつけていることだ。
国益などとは無縁の私には、いつもあの詩のフレーズが頭に浮かぶ。
戦死やあわれ
兵隊の死ぬるやあわれ
とおい他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ネズミ以下の争いごとなんて、真っ平ごめんだ。君はそう思わないかい?
日を浴びて朝露が光る合鴨の田んぼ
]]>朝から焼酎。なんともいい響きだ。毎日こうなら確実にアル中、病院送りになってしまう。年に一日だけと決めているのが、有機農業の秋の収穫祭「生命のまつり」だ。今年は11月20日に開催した。35回目を迎える由緒ある祭りだ。
私が参加したのは1996年、鹿児島にUターンして南方新社を始めた頃だ。サラの赤星さんに誘われた。
最初は、真面目に本を売っていたが、いつの頃からか、本売りはスタッフに任せて、焼酎の番に役目が固まった。
祭りは10時から始まる。その30分前に実行委員を中心にした集まり「朝のまつり」がある。そこで鏡割りがあり、みんなで朝酒をもらう。鏡割りの樽には焼酎3升を水で割って入れてあるから実行委員の朝酒くらいでは大量に残る。それを来場したお客さんに振る舞うわけだ。
あるとき、樽に柄杓が掛けてあるだけなのに気が付いた。焼酎が満々と残っているのに誰も飲もうとしない。もったいない話だ。良識ある市民は誰かの許可を得ずに黙って飲むことに慣れていない。通りがかりの人に、「どうぞ」と声をかければ、ほとんどが「貰おうか」ということになる。かくして「焼酎の番」という係が生まれた。昼前には空になるのだが、私もいただくから、そのころには結構回っている。
焼酎を飲んで怒る人はいない。みんな笑顔だ。焼酎代は4000円ほどだろうか。それで、何百人もの笑顔が生まれるなら安いもの。
以前、小学校低学年の男の子が焼酎を貰いに来た。駄目だと言うと、お母さんにねだっていた。お家でも結構もらっていそうだ。お母さんが何回もお代わりに来ていたが、いつの間にかその小学生は千鳥足になっていた。ありゃ。今年も顔を見せていたお母さんに、あの子は?と聞くと、受験勉強で来れなかったという。びっくりだ。時の流れるのは早い。大人とも対等に口をきき、好奇心旺盛な子だったから、きっと何をしても生きていけるだろう。
別の年には、祭りのまとめ役をしていた小林さんが調子に乗ってガンガン飲んで、すっかり酔っ払った。出店料の集金係だったが、足はよろよろ、ときには倒れる始末。ちゃんと集金できたか知らない。あの日以降、小林さんは祭りで飲まなくなった。
その小林さんも、昨年病を得て亡くなってしまった。中心人物だった大坪さんも心臓を傷めて亡くなった。長野さんも大和田さん、橋爪さんも逝った。35回、私が参加してから26年、年を経るということは、今生きている人が死んでいくことだと改めて思う。
大きくも小さくもならない手作りの祭り、生命のまつり。来年もどうぞ。
朝のまつりで、田の神さあが南方新社に。
ステージ横で、焼酎と田の神さあがお迎え。
ステージでは催し物がある。
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10月21日、今日も快晴だ。9月の台風以降、ほとんど雨は降っていない。
会社の事務所のある下田では、鹿児島市内の清水町に注ぐ稲荷川の中流が?木川と名前を変え、その両側にけっこう広い田んぼが広がっている。
10月の頭から始まった稲刈りも順調に進み、今ではほぼ終わった。
稲刈りは、この田園地帯の最大のイベントである。いつも世話になっている下田のよしみ食堂でも、常連客の会話は、もう終わっただの、昨年より多かった少なかっただの、稲刈りに関する話題が中心となっていた。
うちの下の田んぼは5畝ほどの小さなものだが、稲刈りに男手4人と80を過ぎた婆さんが集合していた。大した働きにならないのは本人も分かっているだろうが、出てこずにいられなかったのだと思う。
別の田んぼでは、大人たちに交じって小学校の低学年、幼稚園生と思われる小さな子供3人が、お母さんと一緒に掛け干しを手伝っていた。おー、いい眺めだ。
私の田んぼは、橋口さんにコンバインで刈ってもらった。乾燥機に入れて3日目には新米の出来上がり。
コメを取りに行くと、いつも原発の集会に顔を出す新村さんが、軽トラの荷台いっぱいに米袋を積み上げていた。今年の収穫は籾で2トン強。手伝いの親戚の若者ともども、いい顔をしている。別な顔見知りも、今年は食いきらんほど穫れた、と言いながら積んでいた。口調も軽く、なんとも朗らかな表情である。
ここに至るまでには、私の田んぼでも色々あった。
テープを馬鹿にしたスズメは、鷹の凧(イーグルカイト)で撃退した。勢いを増した猪には、大汗かきながら草払いして張った電柵で対抗した。
9月18日の台風では、すべての株が倒伏。すぐに水を抜いたが、最後まで水を抜かないほうが味がいいという鉄則もある。倒れた稲が立ち上がるときに消費したエネルギーは、味と収量に影響しただろう。
それでも、雨続きだった去年に比べ、7月の晴天続きで分けつも順調だったせいか、昨年比1.2倍の収量。
出来、不出来の幅はあるが、毎年この稲刈り時期は、みんないい顔をしている。こうした表情は、家族・親戚一年分の食糧を確保できた、その安心から来るのだと思う。
資本主義の原則である競争と発展、裏返せば敗北と没落への不安。それと対極にある毎年変わらない収穫と未来への安心。政治や経済では、ほとんど忘れられたこの農的世界。変わらないことが安心を生む強さを、あらためて思う。
9月18日の台風で倒伏した稲。
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こりゃ大事件だ。先日、奄美大島に仕事で行ったとき、知人の話にたまげてしまった。話はこうだ。
今年の5月、名瀬市の小湊という小さな集落で中学の同級生が久しぶりに集まった。歳は60代後半、男女7人だ。昔の仲間と会うほど気の安らぐときはない。
ひとしきり話が弾んで、誰かが潮時がいいのに気が付いた。子どもの頃そうしていたように、集落の磯で貝を採ろうということになった。ワイワイ騒ぎながら、一人当たりサザエやタカセガイを数個確保。それでも煮たらいい出汁が出るし、身も旨い。あー面白かった、と帰路に付き、集落の入口に差し掛かったとたん、事態は暗転する。
なんとそこに待ち構えていたのは、海の警察、海上保安庁の職員だった。密漁の現行犯で、同級生たちは捕まってしまったのだ。夕餉の一品となるはずの貝は証拠品として没収。
同級生のうちの一人は、知人の友人だった。あんまり腹が立ったので、都会に出ている出身者を含めて集落民で署名運動をしようという話も出たという。そりゃ、そうだ。
この事件は、奄美の地元新聞の一面で報じられた。元南日本新聞の腕利きの記者に話すと、過剰取り締まりで一面になったのかい?と聞き返してきた。それほど理に合わない話だと思ったわけだ。
だが、数日後、海保に事情聴取に呼び出された同級生はすっかり意気消沈していた。2020年12月施行の「改正」漁業法で、密漁の罰金がそれまでの20万円以下から100万円以下に値上げされていた。ビックリだ。文句を言ったら、反省の色なしと100万円満額払いが待っている。悪うござんした旦那、と謝り倒すしかない。
日本中、田舎の集落はどこも過疎に見舞われ、住民の数は激減している。田舎でさえ、食べ物はお金を払って買う時代になっている。漁業者以外の一般人の採る量は、戦後の食糧難の頃に比べると10分の1以下になっているはずだ。だけど、罰金は5倍。
漁業法は、漁師の生業を守るためのもの。やくざ屋さんが、北海道かどこかで、夜、ナマコを大量に採って、中国に売りさばいて捕まったという話は聞いたことがある。だが、集落の住民が採る量で、漁師の生業が脅かされることはあり得ない。集落民は、ずっと昔、そこに住み着いた時から海のものを採って食べていた。いわば生活文化そのものである。それを断とうというのか。
ネットで調べると、この密漁摘発は全国的な動きだ。貝1個でも密漁。意味不明な法律と、悪乗りする海保。嫌な世の中になってしまった。
同級生たちが貝を採った磯。
海と集落の境には看板があった。だけど文字も小さく、密漁禁止の文字は消えかけていた。
]]> 8月19日、わがアイガモ田んぼ、出穂。喜びのときだ。田植えが例年より10日早かったせいで、やっぱり10日早く穂が出始めた。
穂には小さな雄しべが風に揺れている。花粉が風に乗り、雌しべに受粉すれば米の赤ちゃんが生まれ、やがて熟して食べられる米になる。
イネ科の植物はたいてい風媒花なのだが、稲は品種改良を重ねたせいか、開花前にほとんどが自家受粉してしまうらしい。でも、風情がないので風で受粉することにしよう。
穂が出始めた稲
それはさておき、このところ谷の田んぼが次々と耕作を止めている。田んぼをやっているのは70、80代の年寄りばかりだったから、時間の問題だと思っていたが、こちらも年を取った分、やはり止めざるを得なかったのだろう。今年は谷の入口の5枚が一斉に草っぱらになった。
問題は、それまであちこちの田んぼに分散していたスズメが、残った田んぼに集中するようになったこと。数年前から、うちの田んぼに30羽の群れが常駐するようになった。今年はもっと増えるかもしれない。
知人が教える対策は二つ。案山子を並べるか、テープを張るか。でも、いったん田んぼに入り始めたら、その後は何をしてもダメらしい。というわけで、表が赤、裏が銀のテープを大量に買い込んだ。
穂が出る前の8月14日、田んぼの畦を行ったり来たりして、この赤銀のテープを十分張り巡らせた。風に吹かれるたびに赤と銀がキラキラと輝いている。うーん、美しい。満足、満足。今年は、これでスズメ対策ばっちり。一人田んぼを眺めながら悦に入っていた。
と、その時一羽のスズメ。なんと張ったばかりのテープにとまったではないか。
あちゃー。開いた口が塞がらないとはこのことだ。
そういえば、アイガモの餌を食べに来たスズメを目にしたことがある。カモの餌に味をしめたスズメは、赤銀のテープなどものともしなかった。そのうちコメの美味しさにも気が付くだろう。今年もスズメは特上のアイガモ米をたらふく食べることになる。打つ手なし。いったいどうすりゃいんだ。
もう一つ、問題が持ち上がっている。数年前に大騒ぎになった猪だ。この谷にまた出没している。うちの田んぼにも、カモ逃走防止用の網の外側に、足跡があった。
カモ網があるうちは、田んぼの中には入らないと見ている。だが、稲刈りの1週間ほど前には網を外す。猪に気付かれないことを祈るばかりだ。青天続きで豊作を期待していただけに、よけい心配だ。
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昨年4月、会社の庭に入居したニホンミツバチ。あれから1年余りたち、5段重ねの重箱式の巣箱に入りきれなくて、入口にたくさん群れている。
ハチは上から下に巣を伸ばしていく。中を覗いてみると、一番下の段まで巣は伸びている。
ハチミツの収穫時期だ。これなら上2段は採れそうだ。近所の橋口さんに手伝ってもらうことにした。
7月9日土曜日の朝9時集合。カッパに手袋、網付きの帽子と、重装備で臨んだ。
箱を止めてあるガムテープを剥いで、天板を外し、箱と箱の間に薄いヘラ状の器具で切れ目を入れる。最後は細い針金で巣を切断する。こうして、ミツのいっぱい詰まった巣2段分を確保した。この間、約一時間。でも汗だくだ。
巣を取り出して、包丁で切れ目を入れると、ミツがどんどん流れ落ちて来る。あっという間に、4kg確保できた。舐めてみると、やっぱりうまい。以前採ったハチミツを、お客さんに大匙で舐めてもらったら、「鳥肌が立った」と最大級の褒め言葉をもらったのを思い出した。
1kgの大瓶は橋口さんへの分け前。いつも昼ご飯を食べさせてくれるよしみ食堂の奥さんには小分けにした小瓶一つ。会社の斜め前に草取りをしていた年寄りがいた。以前、畑の世話をしてもらったことがあるから、また小瓶ひとつ。
あちこちに配ったら、お返しにキュウリ、トマト、ナスなどの夏野菜が山盛り届いた。ニガゴリの漬物もいただいた。まるで、わらしべ長者だ。
考えてみると、このハチミツは私が集めたわけではない。夜明けのまだ私がグウスカ寝ているときから日が沈むまで、ハチたちがせっせと集めたものだ。一匹のハチが集める量は小さじ半分ほど。ハチの寿命はせいぜい一カ月。大変な苦労のたまものだ。有り難いことこの上ない。
会社は七窪水源地の真上の高台にある。水源地だから滅多に木が伐られることはない。ハチの飛ぶ範囲は2km。会社の半径2kmにこの水源地の森があってこそだ。あらためて森の大切さを思う。
*7月8日、安倍元総理が銃撃された。国葬などという声も上がっている。2015年8月11日、国内の全原発が停止している中、九州電力川内原発1号機の制御棒が抜かれ、再稼動した。この最高責任者が当時の総理、安倍氏である。統一教会とグルになるなどもってのほかだが、原発の稼働に反対する県民として、国葬など許されない、と言っておきたい。
重箱式の巣箱。上2段とって、下3段を継ぎ足して6段になった。
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昨年7月、奄美大島と徳之島が世界自然遺産に登録された。
乱開発を防ごうと島の自然保護を訴え続けてきた人達が何よりの功労者だと思うのだが、もう一人、大切な人がいる。山下弘さんだ。アマチュアの植物写真家として広く知られた存在だ。家族を養うために定職に付きながら、休みのほとんどを植物の調査と撮影に充ててきた。
40年間で、島に自生する約250種の絶滅危惧種の花を写真に収めている。絶滅危惧種だから、どこにでもあるわけではない。島に数株しかないものもある。おまけに花の咲く期間は短い。ほんの数日で萎んでしまうものだってある。だから、一つの株を何年も追い続けることになる。
見慣れないものは、専門家に託した。その中から、アマミカヤラン、アマミアワゴケなど、新種や日本初記録種、新産地の発見につながっている。
専門家が来島すると、惜しみなく案内をかって出た。いくら専門家といえど、初めての山は右も左も分からない。山下さんのおかげで、奄美の植物の多様性と貴重さが、広く知れ渡るようになったと言っていい。
自然の世界は、知れば知るほど分からないことが増えてくる。なぜ奄美にこの植物が存在するのか、他の島や日本本土、台湾や大陸の植物との親戚関係はどうなのか。専門家でさえ、奄美の植物の理解は道半ばだと言う。
絶滅危惧種の中でも、世界中で奄美だけにしかない固有種も54種と、その数は多い。まさに島の宝だ。
山下さんが最も気にしていたのは、この島の宝が消えて行くことだ。
道端の草刈りや林地の伐採等、不用意に人間が手を入れることで、次々に絶滅に瀕した貴重な植物たちが消えている。もう一つ、盗掘の存在である。「そこにあるから美しい」希少な植物が、心無い一部の人間によって盗掘されているのである。
山下さんは昨年5月に逝去された。亡くなる一週間前まで、病をおして盗掘防止のパトロールを続けていた山下さんの心中はどんなものであったか、想像に難くない。
今年の一月、山下さんの遺稿が届いた。山下さんが使っていたパソコンのハードディスク、植物写真が収められた14枚のDVDである。
今、『奄美大島・徳之島の希少植物』と題した写真集の編集が大詰めを迎えている。
奄美の希少植物が永遠に命を繋ぎ、島の宝であり続けることを願った山下さん。本書の刊行によって、山下さんの遺志の焔が、奄美の人々の胸にほうほうと燃え続けることを、編集の重責を担ったものとして心より願う。
山下さんが発見した新種・アマミアワゴケ
絶滅危惧?A類(CR)(環境省)
絶滅危惧?類(鹿児島県)
先々週の日曜日、天気が良かったので田植え前の畦の草刈りにあてた。
8割がた終わったところで、草刈り機のエンジンがかからなくなり中止。余った時間で、田んぼの隣の畑にオクラとインゲンの種を植えた。
草刈り中は何ともなかったが、座り込んで草をむしっていると、どこにいたのかブヨが大集合してきた。以前、耳たぶを嚙まれ、長い間痒くてたまらなかった。タオルで頬かむり。暑いので長袖を腕まくりしていたら、ブヨが止まった。パシリ。叩いたから大丈夫。また止まった。パシリ。何とか二畝終わった。
一週間もすれば芽が出るだろう。満足、満足。汗を流して気持ちいい。いい一日だったと作業を終えた。
異変は翌朝起きた。いつもは8時9時までぐっすりなのに、まだ薄暗い朝の5時前、痒くてたまらず目が覚めた。眠りながら両腕を搔きむしっていた。掻けば掻くほど痒くなる。こりゃ、たまらん。見ると、20カ所以上ぷっくり赤く膨れている。おー、かいかい。
蚊も刺されたら痒いけど、ブヨはその何倍も痒い。何故か。疑問がわいた。きっと毒の成分が違うのだ。調べてみると案の定だった。
蚊は、細い口で人間に気付かれないように肌を刺し、食事中(吸血中)血が固まらないような成分を出している。だから、お腹いっぱい吸えるというわけだ。
ブヨは皮膚を食い破って血を吸う。だけど、私は20カ所以上嚙まれたのに全く気が付かなかった。ブヨの毒の成分は麻酔作用がある。だから気が付かなかったのだ。なるほどね。
もっとも、「毒」というのは、それによってアレルギー反応を起こして勝手に痒くなる人間の勝手な決めつけ。蚊もブヨもゆっくり食事をするために工夫しているだけのことなんだ。
もう一つの疑問もあった。人の余り行かない谷だ。普段は何を食べているのか、というもの。
ネットでは、ほ乳類や鳥類の血を吸っているという。タヌキやウサギなんかだ。みんな固い毛で覆われている。だったら、人間の髪の毛に潜って頭を嚙んでもいいはずなのに、そうではなかった。私が嚙まれたのは、腕の下の白く柔らかそうなところばかり。
散々調べたら、やっとありました。血を吸うのは産卵前のメスだけで、普段は花の蜜を吸っているという。なるほど、卵を作るための栄養だから一生に一度吸えばいい。人間相手なら、私がブヨでも、髪の毛をかき分けるより、柔らかそうなところを選ぶ。
自然の世界は知らないことばかり。痒い思いをして、また一つ不思議な世界を垣間見た。
ブヨに刺されたのは柔らかいところ
ブヨは、きれいな水の流れに生息。この谷も、七窪水源地の湧水が流れる
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以前、毒草だけを集めた『毒毒植物図鑑』を出したが、ちょっと趣が異なる。図鑑の方は、この草を食べたら下痢をするよ、とか草の汁が付いたらカブレて酷い目に遭うよ、とかを教える本だ。魚毒の方はもっと実用的だ。
魚毒漁、聞いたことがあるだろうか。釣りをする人なら耳にしたことがあるかもしれない。
いま、ちょっと山に入ると、白い花をいっぱいつけたエゴノキに出合える。やがて花は実になるが、この実は強い植物毒サポニンを含んでいるので、大量に潰して川に投げ込めば、下流の魚がプカプカ浮かんでくる。これが魚毒漁だ。
夢のような漁法じゃないか。釣りなら欠かせない、竿も釣り糸も針も餌もいらない。狩猟採集文化の最高峰と言われるゆえんだ。
いったい誰がこんな漁法を思いついたのか。一つの仮説がある。
エゴノキの実は、潰すと泡をいっぱい出すので昔は石鹸の代わりに使っていた。川で体を洗っているとき、下流の魚が浮いてきたこともあっただろう。そこから、この魚毒漁が発明されたという話。
エゴノキ
だけど、この本によると、紀元前4世紀のアリストテレスの書いた本にも魚毒漁が出てくるという。しかも、使う植物はモウズイカという聞いたこともない草。それどころか、世界中で魚毒漁が行われているという。それぞれの地域で使われる植物も様々だ。
日本でも、エゴノキに限らず使われた植物は数が多い。サンショウの木の皮や実、渋柿、椿油の搾りかす、奄美や沖縄ではイジュの木の皮や、ルリハコベが登場する。
ちょっと川に流すだけでは、薄まって空振りとなる。実際にやるときには村を上げて、各家でカマス一袋という具合に分担し、大量の魚毒を流さなければならなかった。増水時は出来ないから、渇水時に雨乞いの祭りに合わせてやったところもある。
実は、この大変さが資源を維持させてきた理由でもある。楽にいつでもできれば川の魚は消えてしまう。年に何回かしかできないという大変さが、ちょうどよかったのだ。
1951年、水産資源保護法で魚毒漁は全面禁止になった。青酸カリや農薬を流す輩が現れたのだ。確かに効率的だが、金に飽かせて毒を買い、しょっちゅう流せば結果は見えている。
奄美や沖縄では、干潮時にタイドプルで魚毒漁をやっていたという。いつか、小さい潮だまりでこっそりやってみよう。先人の知恵だ。忘れられ、消えてしまうにはあまりに惜しい。
ウクライナが大変なことになった。侵入したロシア軍に、ウクライナ軍は反撃している。本当に大変だ。
だが、鹿児島、沖縄の軍事要塞化が急激に進む中では、決して他人事ではない。日本が戦争状態に陥ったときのことを考えてしまう。果たして自分は銃を取れるか、と。
銃口の先にいる敵の兵士は、戦争を決定した指導者ではない。彼には家族もあろう。若ければ恋人もいるだろう。引き金を引くと同時に、彼の関係する幾人もの人が、涙を流し、嘆き悲しむことになる。彼の未来も、その瞬間に閉ざされてしまう。
撃たなければこちらが殺されてしまう?そうではない。弾丸の届かない所へ逃げればいい。逃げられなかったら白旗を掲げて投降すればいい。
臆病者と言われるだろう。国を守らないでどうすると罵倒されるかもしれない。そうだ、臆病者だ。人を殺すより、罵られる方がずっといい。
そもそも、守らなければならない国とはなんだ。
人の命を大切にする近代化された時代に生きていると思うのは間違いだ。10万年も到底管理なんかできない放射能のゴミを作り続け、事故があれば大惨事を引き起こす原発。九電の社員は、それを当然知っている。人の命を大切にしなければならないという倫理はそこにはない。
この国の入管は、病気のスリランカ人を放置して死なせてしまった。ちょっと抵抗した外国人を床に押さえつけて大けがをさせてもいる。この国はそんなことをする国だ。
日本が始めた太平洋戦争では、日本人が310万人死んだ。だが、アジアの人では3000万人ともいわれている。迷惑を掛けたと心から詫びる言葉もない。それがこの国だ。
国の内側にも外側にも、戦争とは言わない戦争を続けているようなものではないか。だから、そういうものとは抗いたい。
憲法第九条を見てみよう。
第九条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
?前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
この美しい条文は、とっくの昔に骨抜きになっていることを改めて知る。早晩、好戦的な為政者によって、日本国憲法から消されてしまうかも知れない。だとしたら、「国はなくても民は生きる」を信条にするほかない。
]]>2月1日、石原慎太郎氏が死んだ。テレビでは臨時ニュースが流れ、アナウンサーが過去の経歴を述べ、さも偉大な政治家の訃報を伝えるようにしつらえていた。NHKのニュース9では、キャスターたちが揃って喪服のような黒い服を身に付けていたという。
なんだこれは。私には、頭の固い差別主義者、幼稚な国粋主義者にしか見えなかったから、まるで漫画だ。
三国人発言をはじめ、数々の差別発言は上げたらきりがないが、破滅をもたらす行為は忘れてはならない。
今、日中関係は戦後最悪と言っていい。中国を嫌いな日本人は90%近いとどこかの世論調査で見た。そのきっかけを作ったのは、他でもないこの石原氏だった。2012年、当時都知事だった彼は、唐突に東京都による尖閣諸島の購入を発表し、それが国有化へとつながった。
日中国交回復のとき、田中角栄と周恩来は尖閣の領有権を「棚上げ」にしようと合意していた。その約束を一方的に破ったのは日本であり、この石原氏だった。以降の尖閣をめぐるごたごたから、今急速に進行している南西諸島の軍事要塞化へとつながっている。
奄美大島、沖縄、宮古島、石垣島にはミサイル部隊が配備された。奄美大島と宮古島には巨大な弾薬庫まで付いている。
奄美大島の弾薬庫は31ha。東京ドームの6.5倍の広さだ。みんな知ってた?このビックリの広さ。それを地下に作るという。穴を掘るだけでも大変そうだが、こんなにたくさんの爆弾抱えて何すんの?
こうなることは、石原氏の読み通りだっただろう。逆に言えば、こうするために尖閣購入を言い出したとも言える。ついでに、かつて満州事変の原因となった柳条湖事件のように、自作自演の被害を装って新たな戦争のきっかけを作ったかもしれない。軍事的に緊張が高まれば誰かが火を付ける。そして爆発だ。
そういえば、イラク戦争はブッシュが自信満々に「フセインは核兵器を持っている」と言ったことから始まった。アメリカ軍人を含め何万人も死んで、結果ウソでした、となるが何のお咎めもなし。すっかり調子に乗って同調した小泉純一郎という人もいたっけ。
やったもん勝ちだ。
「民は忘れるもの」と思っているのだろう。でも、日々の暮らしに追われる民にも忘れてはならないことだってある。
江戸期に作られた四連の石橋、西田橋を破壊した土屋佳照と、福島事故後日本中の原発が停止している中で川内原発再稼働を強行した伊藤祐一郎の名前もだ。
七窪水源地の田んぼの谷が、私の通勤ルートだ。仕事場に向かうのはたいてい10時過ぎなのだが、この谷は10時過ぎでも日は当たらない。昨日は谷の枯れ草一面に見事な霜が降りていた。真っ白に彩られた谷の風景は、それは美しい。
谷を上ると、道端で田んぼ仲間の年寄りが手を振っている。バイクを停めると、いきなり話し始めた。このまえ、そこの田んぼで50kgほどの猪が水を飲んでいた、どうにかしなければ大変なことになる、と興奮気味だ。
2年半前にも、この谷の稲刈り前に出て大騒ぎになった。私の田んぼには、子供の猪のヒズメの足跡があった。あの猪が成長したのか。
その後、谷の上の丘にねぐらを移したようだから気を抜いていたのだが、どうなることやら。
伊敷ニュータウンの隣の谷なのだが、付近の農家が田んぼのほかに自給用の畑を作っている。その余り物が並ぶ小さな100円店が6カ所ある。店を出すのは年寄りだから気前がいい。この前の野菜不足のときも、ホウレン草や小松菜が大束で出ていた。
すっかりお馴染みだから、そろそろあの店には柿の並ぶ頃だと目星を付けたら、その通り、5個で100円。別の店では例年通り大ぶりの紫山芋2個100円と期待を裏切らない。
私も米と野菜を作っているが、この小さな100円店はありがたい。
お昼を食べに吉野方面に出向くと、道端に大きめの100円店がある。品数は多いがそう安くはない。これは一般的な傾向だ。県外産の果物や野菜が並ぶこともある。
あるとき、「泥棒はバイクの人」の張り紙が目に入った。お金が合わず、よっぽど腹が立ったのだろう。気持ちは分からないでもないが、私もバイク乗りだから、その店には立ち寄れなくなった。ただの張り紙だけかもしれないが、「盗難防止・監視カメラ設置」なんていうのもあった。やれやれ、だ。
かと思うと、先日登った三重岳麓の小さな集落の100円店。いくつか手に取り、箱にお金を入れたのだが、100円とも何とも書いてない。あとからやってきた近所のおばさんに「100円でいいですよね」と聞くと、「適当でいいよ」と言う。
集落の人が余り物を持ち寄り、必要な人が持っていく。値段は、買う人に委ねられている。つまり、0円から無限大。
集落以外の人はほとんど立ち寄らないから、なんだか集落内のお裾分け場所のような感じだ。何とも大らか。
お金が目的になると、人はさもしくなる。お金のない世界。見果てぬ夢なのだろうか。
12月18日、川内1号機が定期点検を終えて再稼働した。単なる定検ではない。この定検で、九電は20年の運転延長のデータを集めていた。
2024年7月に40年寿命を迎える1号機。九電は、この数年間で何千億もの追加投資をしている。今でもぬけぬけと、20年運転延長の申請をするかどうか分からないと言っているが、来年の夏ごろには申請するに違いない。来年は、この問題がヤマ場を迎える。本作りもしなければならないのに、また忙しくなる。
全く迷惑な話だと、ぶつぶつ言いながら、朝早くにこの再稼働の抗議に向かったのだが、道々冬枯れの風景に眼を奪われた。息をのむ瞬間だってある。
川内に向かう南九州自動車道は森を拓いて造っている。道路沿いの土地は痩せているのでススキが列をなして生える。銀色に膨らんだススキの穂が、朝日に光って何とも美しい。
道の両側の削った崖は、急に日当たりがよくなって陽樹が一斉に芽吹く。大喜びだ。イヌビア、アカメガシワ、アオモジが、それぞれ好みの場所に群れている。10年もたてば立派な成木。葉っぱはこの時期、鮮やかな黄色に染まる。
そういえば、これらの樹は、鹿児島ではどこにでもすぐ生えるので昔から重宝されてきた。イヌビアの実は子供の頃おやつにした。田舎のウッガンサア祭りのとき、持参した新米ご飯と米粉で作った団子を神様に食べさせるのも枝で作ったお箸だ。アカメガシワの葉は、団子を包んだ。葉を落としたアオモジは、1、2月になると蕾を付ける。実の花といって冬場の貴重な墓花になる。
真っ赤な彩を添えるのは同じ陽樹のハゼだ。モミジのない鹿児島の平野部で赤くなるのは大抵この木だ。
日当たりの良い森の際では、クズやヤマノイモ、カラスウリなどの蔓植物が、元気よく森の樹にとりついていく。森は暗いところを好む陰樹で構成される暖帯照葉樹林だ。だから、冬場も葉は落さず緑色のまま。樹冠にまで達した蔓植物も黄色くなる。緑の樹々が、まるで黄色の髪飾りやカーデガンを纏っているようだ。
シイやタブの照葉樹林の中に赤と黄の中間の色を見せるのは、同じ陽樹だが入り込むのが遅く森が暗くなってもしぶとく生き残る、コナラやヤマザクラだ。
3月になれば、森の中にポッ、ポッと白い明かりをともすのはこのヤマザクラだ。
およそ1時間、同乗者と森や樹の話をしながら川内原発に向かう道のりは、実は、季節ごとにこんな楽しみを与えてくれるのだ。
本を作りながら事実確認のためにネットを開くが、つい画面に現れるニュースに見入ってしまう。
小室夫妻の動静をはじめ、何でこんなんがニュースになるの?と思ってしまう記事が多いが、今日のヤフーニュースの上の方には「山本太郎が10円ハゲで初登院」とあった。これがニュースかよ、と笑っているうちに何を調べようとしていたかも忘れてしまった。
でも、考えてみれば、ニュースで取り上げるべきはハゲよりも山本太郎の政策であるはずなのに、ハゲで笑わされるという愚民化の術中に見事にはまったのかもしれない。
11月18日の毎日新聞で初めてコロナワクチンのマイナス情報を目にした。「接種後死亡1325人」という見出しだ。どこも報じない中でよくやったとしたいところだが、既に国民の7割が接種済みだから、打とうか打つまいかの判断材料には遅すぎるというほかない。
ワクチンのマイナス情報はすべて根拠のないデマと片付けられてきたが、専門家である新潟大学医学部名誉教授の岡田正彦氏は、ユーチューブで危険性をきちんと指摘されている。
何年か後に発症するかもしれない自己免疫疾患や発がんの恐れを聞くと空恐ろしい。「安全性が全く保証されていないワクチン」と、氏は断言する。それを「強要するのは犯罪」とまで。こんな問題点を挙げる専門家は岡田氏一人だけではない。にもかかわらず、マスコミが一切報じないのはどういうことだろうか。図に乗った政府は、3回目の接種とか、子供にまで拡大とか言い出している。
一昔前、遺伝子組み換え食品が世に出回ろうとしたとき、危険性を指摘するかなりの報道があり、国民も危機感を持った。その結果、スーパーで普通に売っている納豆や豆腐にも、わざわざ「遺伝子組み換えでない大豆を使用」なんて表示がされるようになっている。
遺伝子組み換え食品どころか、今回のコロナワクチンは遺伝子組み換えワクチンで直接体内に注射で注入される。マスコミもそうだが、あれほど食品には気を付けるはずの国民が、ワクチン接種を素直に受け入れているのも腑に落ちない。第一、筋が通らないではないか。
実体以上にコロナへの恐怖をうまく演出した政府の勝ちだ。
政府の方針に異を唱えられないマスコミと、唯々諾々としたがう国民。これにて、戦時体制の予行演習は見事に終了。あとは、さんざん中国脅威を演出して、憲法改悪、戦争の本番を待つばかり、というわけか。
]]> 9月だったか、沖縄出版協会からシンポジウムの参加要請が来た。「地方出版の現状と課題」がそのタイトル。こっちは課題だらけだから、「ほい」と二つ返事で了解、壇上に登ることになった。
連絡があった当時、沖縄では連日500人とか800人とかのコロナ感染者が出ていた。人口比当たりの感染者は日本一! すごいなあ、危険地帯だ。何だかワクワクする。
船で行った方が安いかなあとか、木賃宿でいいからネ、と言うと、県から予算が出ているから飛行機代も出すし、ちゃんとしたホテルもとると来た。鹿児島ではこんな話は聞いたことがない。文化に対する考え方のレベルの違いを垣間見た。
というわけで、10月15日、いそいそと鹿児島空港から発った。当日はシンポジウムに連動する書店でのイベント見学。地元テレビ、ラジオのアナウンサー4人による朗読会だ。なかなか盛況だ。
でも、その後の打ち上げがもっとビックリ。だだっ広い居酒屋は若者でビッシリ。みんな大声で騒いでいる。店員さんも、「ゴーヤチャンプル一つ〜」とか「ありがとう〜」とか、これも大声だ。ところどころにアクリル板が置いてあるが、何の意味もない。
マスコミに脅され、すっかり委縮している日本本土とは大違い。こりゃ、日本一になるはずだ。
というわけで、すっかり飲んだくれて、二日目のシンポジウムを迎えた。
沖縄出版協会には地元出版社16社が名を連ねている。16社ですよ、16社。この数を見るだけで沖縄の地方出版の力が分かるというもの。毎年、沖縄本が200とか300とか出ているという。
地方出版が成立するには、地域のことに強い関心を持つ地域の人が、どれだけ厚く存在するか、にかかっている。日本の出版社では掬えない、沖縄独特の文化、歴史、社会、自然をテーマに、16社が本を作り、ちゃんと食べている。沖縄というアイデンティティがしっかりと生きているわけだ。
シンポの中で、地域のアイデンティティは、日本という国をどれだけ相対化できるかにかかっていると気が付いた。琉球処分、沖縄戦、辺野古と相対化せざるを得ない状況もあった。首都圏への一極集中が進み日本の地方の県は軒並み人口が減っているが、沖縄は唯一人口が増えている。これも同じ文脈で見ることが出来る。
二日目、三日目と3夜連続の飲み会は全部地元の方に世話になったのだが、コロナをものともしない若い力と、沖縄出版の底力は、確かにつながっていると感じた。
先週の日曜日、庭の木が隣の家まで伸びているからどうにかしたいと、木の剪定に駆り出された。
なるほど、山茶花が元気よく伸びまくっている。よく見ると、葉っぱや枝のあちこちに何十匹という毛虫の集団が見える。チャドクガだ。
集団でわざと目立つのは、生き延びるための戦略だ。毒のある蝶が目立つ翅をもち、毒きのこも目立つ色をしている。毒のある田んぼのジャンボタニシの卵は真っ赤な塊で生みつけられ嫌でも目につく。
こいつも、一匹でいるより集団の方が目立つから、毛虫を餌にしている鳥たちに、おいらを食べたら酷い目に遭うよとアピールしているというわけだ。小さいのに頑張っているね。
さて、いよいよ枝切りだ。こっちは半そでだけど大丈夫。毛虫に触れないように注意してやれば、刺されるはずはない。ノコギリでバンバン切り始めた。
途中、のどのあたりがむず痒くなった。こいつはやばいと、ガムテープを取ってきてもらって、のどをペタペタ。こうすれば、万が一毒毛が刺さっていても取り除けるはず。
おっと、握った枝に毛虫がびっしり。手のひらで潰してしまった。でも手のひらは大丈夫。強いからね。と、およそ2時間、作業は終わった。きれいになった庭を眺めながら飲む冷えたお茶は、あーおいしい。
異変は夕方起こった。ひじから先の腕の裏側、生白いところに薄っすらぽつぽつ赤い斑点。ん!?もしかすると。だんだん赤いぶつぶつがはっきり形を現し始めた。かゆい。こりゃ、たまらん。でも、我慢、我慢。毛虫で死んだなんて聞いたことがないから大丈夫と、自分に言い聞かせた。我慢するうちに3日でぶつぶつはほぼ消えた。でも刺されてはいないはず。
毛虫に触れてもいないのに何故ぶつぶつ? かゆみと闘いながら、ずっと頭に引っかかっていた疑問だ。ある時ひらめいた。あのチビ毛虫は、異変を感じたら毒毛を飛ばすんじゃないか? 切るとき枝は揺れまくるから、毛虫も尋常じゃないと思うよね。
案の定そうだ。調べてみると、1匹の毛虫が50万〜600万本の毒毛をもつという。しかも1本が0.1mmだ。こいつはすごい!! 一つの群れで30匹はいた。30匹×600万=1億8000万本の毒毛だ。群れは一つと言わず、少なくとも20はいた。およそ40億本の毒毛の舞う中で枝を切っていたことになる。
ガムテープのおかげか、のどは異常なし。
それにしても、毒毛を飛ばすなんてよく考えたね、チャドクガ君。
朝会社に来たら、居合わせた3人の女子スタッフが何やら騒いでいる。
クモがいたらしい。それも、飛び切り大きいクモ。アシダカグモだ。鹿児島では、ヤッデコッと呼ぶ。クモは鹿児島弁でコッ。漢字で書くと八手蜘蛛となる。
こいつは夜行性で昼間は物陰に潜み、夜になると徘徊してゴキブリ、ハエ、カなどを食べてくれる。
私は、昔から便所でよくにらめっこしたりしていたから、何のことはない。南方新社は下田の山の中にあるので、ムカデやマムシなど時々目にしていた。スタッフも生き物には慣れてきたはずと思っていた。だが、このクモは夜行性だから、10年以上この事務所にいるのに出会うことはなかった。さすがに、見たことのない巨大なクモには肝を潰したらしい。
気味の悪いクモが足下から這い上がってきたら困ると、勇気ある一人が、本棚に入ったすきにガラス戸をぴしゃりと閉じた。
クモも餌を食べなければ死んでしまう。罪のないクモが可哀想じゃないかと、単独の救出作戦に出た。
虫捕り用の網を手に、棚の本を数冊ずつ出していく。本がなくなるとともに、クモが姿を現し、隅っこに追いやられていく。おー、なかなかでかい。10センチはある。網におとなしく入っておくれ。庭に放って自由にしてあげるからねー。声をかけながら網を近づける。とたんに、ひょいと跳ねて足もとへ。机の下に素早くもぐりこんだ。こりゃ、ダメだ。
部屋の外に退避していたスタッフに逃げられたことを告げると、ビービー、ギャーギャー、うるさいのなんの。
「今日は仕事ができない」「もう帰る」「ずっと会社には出てこない」、とかとか大騒ぎだ。
あのゴキブリを食べてくれる正義の味方じゃないか、沖縄では神様のように大切にされている、このクモを朝見たら、朝コッと言って良いことが続いてお金持ちになるんだと、誇張(ウソ)も交えながら説得し、何とか通常業務に戻るまで30分もかかった。
それにしても、大丈夫かねえ。この世に溢れている本当に恐ろしいものは何かを知って欲しいもんだ。
話は変わってコロナ。この鹿児島でも、連日200人以上の感染者が出ている。ワクチン打つ気はないけど、ちょっと気になる。大学時代のメーリングリストでは、イベルメクチンが人気だ。大村智さんが土壌細菌から作った寄生虫の薬だ。これで、ノーベル賞を受賞した。20年以上年間3億人が使用しているという。
早速、ネットでインド製買ったよ。コロナにかかったら飲ーもおっと。
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状況を打開する切り札がワクチンというわけだが、これも怪しい。
鹿児島では、ほとんど報道されないのだが、厚生省はワクチンを打った後556人が全国で死んだとまとめている(7/2現在)。医者から報告された数字だから、医者が面倒だとスルーした数を入れたら倍くらいにはなるだろう。この数は鰻登りだ。
興味深いのは、山陰放送が7月19日に報じた鳥取県でワクチン接種後6人目の死者が出たという事実。この日までに鳥取県でのコロナの死者は2人だから、なんのこっちゃとなる。
鹿児島県はワクチンで何人死んでいるかと言えば、個人情報を盾に、非公表! でも、鹿児島県の人口は鳥取県の3倍だから、15人から20人は死んでいると予想できる。
ワクチン推進一直線の国や県が、こうしたマイナス情報を出したくない気持ちは分かるが、戦時国家じゃあるまいし、ワクチン接種は自己責任なのだから、マイナス情報も全部公開したらどうだい、と言いたくなる。
私は、よく分からない薬など打つ気は毛頭ないのだが、ワクチン接種が進まない理由はデマのせいだ、と言われるのも腹が立つ。
曰く、「打ったらマイクロチップが埋め込まれると誤解している人がいる」と。これじゃ、打たない人は、荒唐無稽なデマを信じる、まるで馬鹿じゃないか。
ちなみに、ワクチン接種後の死者のうち、因果関係なしとされた7人を除く99%、549人は因果関係不明とされた。
こうして闇に葬られるのか。
かつて、江戸期以前に大流行していた天然痘(疱瘡)は、流行を耳にすると、村々の境界には自警団が立ち、村外からの立ち入りを厳しく制限したと物の本で読んだ。最近のコロナの騒ぎようは、これに似ている。
でもね、天然痘は、ある村に感染者が出たら、村人の3分の2がかかってしまい、その半分は死に、残りの半分も、失明やあばたなど後遺症を残した、というほどの厄介なもの。
コロナは騒ぎすぎかも。でも、病気にはかかりたくないのが人情。野菜と海藻食べて免疫力を付けようね。
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三省記念会が記念誌を出すから原稿を書かないか、と編集部から案内が来た。有り難いことだ。
事あるたびに、三省の三つの遺言を思い出していたからだ。
遺言の第一は、三省の故郷の「東京・神田川の水を飲めるように」というもの。鹿児島に暮らす私たちは、甲突川と置き換えてもいい。はるか昔、この鹿児島に人が住み始めてから、ずっと長い間、人は甲突川の水を飲んでいたに違いない。川の魚も食べていたことだろう。
その長い歴史から見れば、つい最近のこと、生活排水や農薬のために、甲突川の水は飲めなくなってしまった。今では、飲むなど、思いつきもしない。
甲突川の水が飲めるように世の中が変わったとき、つまり、私たちの暮らしが自然の中に包まれたとき、はじめて、未来に安心できると三省は説いたのだ。
現実はどうだろうか。
4月の大潮の昼下がり、海辺にワカメを採りに出かけた。ここ20年ほどの毎年の決まりごとだ。いつもの海に着いて愕然とした。バイパス工事とやらで立入禁止。海中には無残にも大量の土砂が投げ込まれていた。よく顔を見かけていた年寄りも、私と同じようにがっかりしたに違いない。鹿児島市に残されたワカメの自生する最後の自然海岸は、息の根を止められていた。
遺言の二番目と三番目、人類を破滅へと導く「原発と戦争は止めよう」。
果たして2011年3月11日、福島第一原発の大事故を迎え、地球上に大量の放射能が振りまかれた。放射能の放出はまだ終わってはいない。事故後、初の再稼働を、2015年8月11日、九州電力はこの鹿児島の川内原発で断行した。
対中戦争を射程に入れた奄美大島の大規模なミサイル基地と弾薬庫は建設中だし、馬毛島では日米共用の軍事基地建設が進んでいる。
三省の三つの遺言を思い起こすたびに、暗澹とせざるをえない。
産業革命以降200年、欲望の赴くまま行進を続けてきた人々はいま、三省の願いにもかかわらず、立ち止まるどころか滅亡への行進を加速しているように思える。
もはや、絶望しかないのだろうか、という気さえしていた。
だが、ふと気が付いた。
この世の中で、山尾三省という人がいて、亡くなっても三省記念会に集う人がいる。三省の願いを我がものとする人々が現実にいる。このこと自体が、未来への希望なのだ、と。
]]>5月20日、うれしいニュースが飛び込んで来た。南日本出版文化賞に小社刊の『ミカンコミバエ、ウリミバエ―奄美群島の侵入から根絶までの記録―』が選ばれたというのだ。
やがて、新聞でも大きく取り上げられるだろう。6月には授賞式だ。
著者には副賞30万円が行くが、出版社には何にもない、とブツブツ文句を言っていたら、数年前から額入りの賞状をもらえるようになった。
それはともかく、この本、県の農業技師だった著者たちの情熱の記録だ。2種類のハエは、何れも南方系で風に乗って北上し、沖縄・奄美に定着していた。
ミカンコミバエはミカン類を、ウリミバエはキュウリやメロンなどのウリ科の実を食い荒らす。いずれも1990年頃には根絶に成功している。奄美特産のタンカンが生まれたのも、この努力のおかげだ。
どうやったかと言えば、ミカンコミバエはオスに狙いを定めた。インドの学者が、ある植物にハエのオスが集まることを発見し、その化学物質を特定した。この化学物質を、木材繊維を固めた板に農薬とともにしみ込ませ、集まった雄を全滅させようという寸法だ。雄が消えれば世代は断絶する。
ウリミバエはもっと手が込んでいる。コバルト60の放射線を当てて不妊化したハエを大量に野に放つ作戦だ。野生のハエと交尾しても子は生まれない。やがてハエは消えていく。
こう書けば簡単なようだが、絵に描いたようには事は運ばない。先進地ハワイに話を聞きに行き、沖縄の農業技師と連絡を取り合った。奄美でやっつけても、沖縄から飛んで来れば元の木阿弥だからだ。
様々な器具も手探りで作っていった。そんな幾多の困難を経て、20年という歳月をかけて2種のハエたちは、奄美群島から根絶できた。まるで、プロジェクトX。
と、ここまで読んで気が付いた人もいるだろう。
この2種のハエたちは、沖縄のもっと南の台湾やフィリピンではどうなの?ということ。もちろんブンブン飛んでいる。次に、食害はどうなの?とくるだろう。もちろん、ハエはミカンやウリを食べている。だけど、台湾やフィリピンの人達は、虫が入っていても平気の平左。気にしないで、どけて食べるのさ。
おまけに、ハエに国境はないから、いつでも風に乗って奄美や沖縄に飛んでくる。定着したら、またやっつける。まさに終わりのない戦いだ。
白状すれば、日本でも薬を撒くより気にしないで食べればいいのに、と作りながら思ったものだ。本作りも複雑だ。
]]> 今回も伊仙小学校にまつわる話だ。
先週、突然、小学校の同窓生の民子から電話があった。彼女の散歩コースの城山団地に、これまた同窓生の健治の実家がある。健治は今名古屋に住んでいて、実家は空き家だ。
散歩中に、健治の家の前を通りかかったら、隣家のおばさんが何やら見上げていた。木が伸びて、電線に引っかかっている。伐って欲しいが連絡が取れなくて困っているとのこと。
民子、あんたが健治に電話したらいいがね、というと、「連絡して!」と来た。昔から気の強い子だったなあ。ひょっとすると、電話するのが恥ずかしかったのかもしれない。
何年ぶりかで健治に電話をした。父親はとっくの昔に亡くなり、母親は今、奥州仙台に妹と一緒に暮らしている。母親は、家を売らないでと言っている。だから、あんまり鹿児島には帰れないけど、空き家のままにしている、ということだった。
母親にとって、長年住んだ思い出のある鹿児島の家がなくなるのは、おそらく自分の過去が消えることと同じなのだ。分かる気がする。
とにかく任せとけ、と私が伐ることになった。
民子と連絡を取り、水曜日の午後3時、仕事を抜け出して空き家に向かった。作業員は、私と民子、民子の旦那さん。それと、鹿児島市内に住むリカ子も来た。小学校のころ、リカ子は健治に気があったと私は睨んでいたから想定内だ。
たかが電線に伸びた木を伐るくらいだから、ものの10分か15分の話だろうと思っていた。だが、それは甘かった。
垣根のカイヅカイブキが一列になって一斉に背を伸ばし、電線まで達しようとしていた。こうなれば全部、頭を伐るしかない。持参した脚立を移動させながら、次々にノコギリで伐っていく。民とリカは伐った枝を南方新社の軽トラに積み上げていく。
初めて知ったことだが、カイヅカイブキには棘がある。腕まくりして伐り始めたが、すぐに傷だらけになり、慌ててシャツを伸ばすはめになった。
民の旦那さんも、どんどん伐っていった。全部の枝を軽トラに積み込んで、散れた木の葉や小枝をお掃除して、完了。4人がかりでたっぷり小一時間かかった。汗みどろだ。
終わって記念写真をパチリ。コロナでなかなか会えなかったが、1年半ぶりに民やリカと会うことができた。作業の合間に、いっぱい話もできた。久しぶりに汗をかいて気持ちがいい。
これも、同窓生に健治がいたからこそできたこと。いろんな同窓生がいる。ありがたいものだ。
徳之島の伊仙小学校時代、同級生に保という子がいた。当時は栄養状態が悪いせいか、みんな体が小さく、やせっぽちだった。そんな中で、なぜか保は一人だけ肥満児だった。
体が重いものだから、運動会のかけっこではいつも断トツのビリ。体のことで、いたずらっ子から悪態をつかれることがあったが、決して怒ることはなく、にこにこ笑ってやり過ごしていた。
メジロやスズメ、ヒヨドリを罠や鳥もちで取ったり、クワガタを探したり、魚釣りに行ったり、秋になれば椎の実を取ったりと、田舎の子供は遊ぶことがたくさんあった。一人の子にかまけている暇はなく、いじめに発展することはなかった。
鹿児島では、時々同窓生が集まる。話題の一つが仲間の消息だ。島では親戚かなんかでほとんど繋がっているから、誰がどこにいるかは大抵分かる。ところが保については、何の情報もなかった。
2年前に大阪で同窓会があった。鹿児島の伊仙の子たち5人組で、遠路はるばる参加した。なんとそこには、あの保がいた。和歌山の福祉施設で働いているという。50年振りにあった保は、相変わらず太っていて、にこにこ笑っていた。
宴会の翌日は大阪観光だ。名所と言えば天王寺の通天閣。あちこちの店さきに、太った子供の像が置かれている。ビリケンさんだ。商売繁盛の縁起ものなのだろう。
このビリケンさんが保に似ていると、誰かが気が付いた。ビリケンさんは石や金属で作られた像だから当たり前のことだが、ずっと笑っている。
ためしに保に聞いてみた。「保、あんたこの10年で怒ったことあるかい?」。うーん、と少し考えて、「ないなあ」とのんびり答えが返ってきた。一同大笑いだ。きっと、10年と言わず、もっと長い期間、怒ったことがないのだろう。
宮沢賢治の雨ニモマケズの詩に、「決シテ怒カラズ イツモシズカニワラッテイル」という言葉があるが、「サウイウモノニ ワタシハナリタイ」と継がれている。宮沢賢治だってプンプン怒ることがあるから、こんなことを書くのだろう。
だが、怒らず、いつも笑っている、を地で行く人間がいるのだ。
3月18日、広島高裁は停止中の伊方原発の稼働を認めた。このバカスッタレがー、と一人怒っていた。吹上浜や紫尾山の風力発電や、川内原発をめぐるあれこれと、最近、怒ることが度々あるが、少し経つと、なぜか通天閣のビリケンさんと保の顔を思い出すのである。
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コロナ騒ぎが続いている。生き延びるためには猿並の免疫力を目指すしかないと前回書いた。
猿は一日に200種類の食べ物を口にすると言う。猿にとっては、朝から晩まで食べることが仕事だ。虫やトカゲなどの小動物、木の実や新芽も口にする。毒がありそうなものは苦いからベッと吐き出す。これは人間が野草を食べるときの基本でもあるけどネ。
200種類も食べていたら、ミネラル、ビタミン、タンパク、ありとあらゆる栄養が自然と身に入るだろう。跳ねまわり、木にぶら下がって運動しているから免疫力も十分だ。
スーパーの野菜は、せいぜい30種類だという。しかも根っこに土の気配のない水耕栽培のものも目立つ。品種改良されて、昔なら3カ月かけてやっと食べられた野菜が、今では半分、もっとすると3分の1の期間で同じ大きさに育つようになっている。同じ土地で、2倍、3倍の生産効率というわけだ。だが、その分、栄養は半分とか3分の1。こりゃ、だめだ。
もう一つ気が付いた。猿でも他の動物でも、子どもは授乳期を過ぎるとずっと親と一緒に行動し、食べ物の獲り方を学んでいく。自分で獲れるようになって初めて独り立ちしていく。大人になったということだ。
人間も、何万年もの歴史の中で、全く同じように子供は大人になっていった。私が子供の頃、周りはほとんどが農家で、子供は親の手伝いをしながら、自然に田畑の作り方、鶏を飼い、絞める技を身に付けていった。川のカニやウナギを獲り、海では貝を採り、魚を釣った。
ところが、ここ2、30年のことだ。猿的子育て法がまたたく間に消えていった。南方新社の若いスタッフなど、鶏はおろか、魚も捌けない。男女問わず、包丁をつかえない若者が増えたと聞く。
自分で食べ物を獲らず、他者から与えられて生きざるをえない動物を家畜という。人間はお金を稼いで自分で食べ物を確保した気になっているが、それさえ見方を変えれば食べ物を交換する食券のようなものだ。
人間の大人は、子供に生きていくうえで最も大切な食べ物を作り、獲る方法を教えなくなった。その代わり、食券を人よりたくさんもらえるように、塾の送り迎えに血眼になっている。だけど家畜は家畜。
免疫力のない鶏や豚は、薬で病気を押さえ込む。
栄養のない水のような野菜を与えられ、自分の体を動かさない家畜化された人間にも、これまた薬、コロナワクチン、というわけだ。やれやれ
昨日で終わった大学入試共通テストで、不正行為による失格が4人あり、そのうち一人は鼻出しマスクと新聞記事にあった。
ん? コロナのご時世だから、受験生にマスクをかけろ、というのはいい。だけど、なんで鼻出しマスクはダメなの?
マスクは、感染者からウィルス入りの唾の飛沫が飛び出さないようにするため。鼻から唾を出す芸達者は、そういまい。鼻を覆うのは、飛沫の吸い込みによる自分の感染を防ぐ防衛的な行為だ。鼻が出たからといって誰の迷惑にもならない。かかったら、自業自得。それだけのことだ。
感染者が増えて、国の医療費が増えるから止めてくれと国が言うのは分かる。それとて、あくまでお願いであって強制力はない。
医療費抑制のために、健康診断を受けろといわれるが、それが強制になったら、病院嫌いの私なんぞ、何度罰を受けることになるか。病院まで遠く、おまけに足の弱い田舎の年寄りはみんな罰せられてしまう。
鼻までしましょうね、と言うのはいいが、失格の旗を揚げる権限が試験監督にあるのだろうか。
記事には「計6回注意した。次に注意を受けると失格になる、と言ったにもかかわらず、従わなかった」とある。何度も注意したけど無視されたので、この監督、キレてしまったのか。であれば、まるで漫画だ。
コロナのためなら何をしても許されるような風潮、自粛の嵐が吹き荒れるなか、周りの批判を恐れて行動する風潮にはうんざりするが、この鼻出しマスク受験生は、その被害者の一人だろう。
受験生は、失格で一年を棒を振ることになる。私ならできない。「ヘイヘイ」と不満げな声を漏らしながら、簡単に屈服するだろう。
納得いかないことには、頑として抵抗する。
今どきの若い者にも骨のあるのがいたもんだ。鹿児島の田舎からエールを送ろう。
最近、県内でも鳥インフルで鶏がバタバタと死んで騒ぎになっている。野生の鳥はそうはならない。何故か。免疫力の差だ。何万羽と飼う大規模な鶏舎は窓ひとつない真っ暗な建物。さらに鶏たちは、身動きとれない狭いゲージの中で一生を送る。動けば、餌の効率が悪くなるからだ。免疫力は、ほぼゼロと言っていい。
コロナも同じだ。まずは、ひ弱な人間が野生の猿並みの免疫力を目指すこと。そのために、食べ物と暮らしの在り方を、どうするか。変えなければ、本当の終わりは来ない。
今年は獣と縁のある年だった。
7月にはイタチが会社に棲みつき、布団の上に糞をするわ、ローカにおしっこの水溜まりを作るわ、大活躍だった。
その時、困った私を見かねた知り合いが、玄関横に手製のハネ罠を作ってくれた。餌に食いついたら、針金が首に巻きつく仕掛けだ。その手際の良さに感嘆したが、かかってくれなくてよかった。
もし、罠にイタチがかかったらどうするの?と聞いたら、棒で叩き殺して山に投げればいい、と言いなさる。こちらが困ったとしても、糞や尿をそこいらにするのは、イタチとしてごく普通のことだ。罪のないイタチを叩き殺すことなんて出来ない。私たちだって糞や尿をする。その下水処理場を作るために、タヌキの親子が住家を追われて困ったかもしれない。言ってみれば、お互いさまだ。
タヌキと言えば、田んぼで働いてくれるアイガモが、今年は7羽田んぼでやられた。例年、何羽かやられるが、パターンがあった。田んぼはカモが逃げないように網で囲っているのだが、隙間から脱走したカモが畦道でやられていた。水を張っているから、田んぼから脱走しない限り、やられることはないと思っていた。ところが、今年はパターンが違った。
今年のタヌキの行動はこうだ。
後ろ足で立ち上がって、両手で網を掴む。思いっきり体重をかけて、網を引き下げる。それを乗り越えて侵入する。泳ぐのは苦手だけど、10cmくらいの深さだから溺れることはない。静かにカモの近くまで寄って一気に襲う。一晩に一羽頂けば十分だ。それに、いつまでも田んぼにいては体が冷える。
そろそろ山に帰ろう。でも、網を引き下げたところが分からない。仕方がないからビニールの網をかみ切って穴を開けよう。おっ開いた。次の晩からは、この穴から入ろう。ちょうど、畦のない崖際だから、人間にも見つかりにくそうだし……。
最初の侵入は分かったが、いつの間にか7羽も消えていた。
田んぼから上げた残りの8羽は、会社の鶏小屋の横のカモ広場で飼っていた。実はこの8羽も、会社の隣の山に棲んでいるタヌキに全部食べられてしまった。おまけに、鶏小屋にも侵入し、12羽中7羽を持って行った。
穴を開けて入ったからそこを塞ぐ。もう穴は開けられまい、と思ったら、壁際の土を掘って入る。コンクリートブロックを置いたから、これで土は掘れまいと思ったら、入口のドアをこじ開ける……。知恵比べではとても勝てない。あんたの勝ちだ。タヌキ君。
10月27日、わが塩田知事は、今年12月末に改選期を迎える原子力専門委員会のメンバーをそのまま留任させると表明した。九電から2億5千万円をもらった、あの宮町座長を含めてである。
この話は、後日、知り合いから聞いたけど、南日本新聞で見た覚えはない。慌てて、翌28日の新聞を捜し出して、ページをめくるけどない。
7月の知事選の公約で、専門委には反対派も入れて(複数)しっかり議論すると言っていた。さらに、専門委で結論が出なければ県民投票をするとまで。原発反対派の中でも、この塩田氏の公約に期待して投票した人もいただろう。
これは公約破りの大ニュースだ。そうなら、大きな記事になるはずと、大きな見出しの活字を捜した。けど、ない! 気を取り直してじっくり見返したら、あった。1段の小さな見出し。ベタ記事というやつだ。
どういうこと?南日本新聞。こっそりスルーしたいわけ?
記事をよく読むと、今回は留任させるが、2年後の改選では反対派を入れるとある。なるほど、まだ先のことだからいいや、なんて思ってはいけない。
専門委の大きな焦点は、あと3年半後の2024年に40年の寿命を迎える川内原発1号機の20年延長問題だ。
スケジュールを確認しよう。
2024年7月4日、1号機40年寿命
2023年7月4日、延長申請期限
2023年1月、新メンバー専門委
次の改選から、九電の申請期限まで6カ月しかない。これまでの会議の開催ペースは年に4、5回。半年なら2、3回となる。
月に1回開いても6回だ。20年延長の問題は多岐にわたる。
第一に、川内の使用済み燃料プールは、あと9年で満杯となる。九電は、持って行くところがないから、敷地内に乾式中間貯蔵施設を作るはらだ。20年延長と、敷地内の乾式中間貯蔵施設はセットなのである。
この施設とて寿命は50年。50年経つと、中性子の遮蔽に使うエポキシ樹脂が劣化して中性子線(JCO事故で飛んだ)がどんどん飛ぶようになる。
ところが50年後、この核のゴミの行き先は全く目途が立っていない。というより、全くの白紙、計画さえもないのだ。
20年延長は鹿児島が核のゴミ捨て場になるという覚悟を伴うことになる。
このほか、原子炉の劣化、原発周辺の活断層、火山、日常的に放出される放射能の健康被害、温廃水による環境破壊。山ほどある。たった数回の会議で「しっかり議論」できるんかいね。
7月、奄美博物館の館長が出版の打ち合わせで事務所に来た。
ひょんなことから、ミナミスナホリガニなるものがいて、奄美の人は食べているという話が出た。
ナヌ!食べる?生き物食いのプロを自認する『海辺を食べる図鑑』の著者としては聞き捨てならぬ情報だ。この本の続巻も準備中だ。これは、捕りに行かねばならぬ!
ところで、スナホリガニ、知らないよね。吹上浜で貝掘りしていて、爪の先くらいの生き物がサッと砂に潜るのを見たことがあるかもしれない。こいつは、九州以北にいるハマスナホリガニ。1cm内外の大きさだ。
まずは、ミナミを捕る予行演習にハマ捕りに行くことにした。
お盆の墓参りに小学生の甥と姪に会った。ちょうどいい。カニ捕りに行くかと聞いたら、「行く行く」ときた。吹上浜に出て、1匹10円だよ、と言うと元気よく波打ち際に走った。
捕り方はこうだ。干潮の波打ち際のひざ程度の深さの砂を、魚捕り用の網ですくう。波に当てると細かい砂は出ていくのでハマスナホリガニが残る。30分足らずで、30匹ほど捕れた。
持ち帰って素揚げにしたらまるでエビセンだ。腹の足しにはならないが、焼酎のアテにはもってこいだ。こりゃ、旨い。
1匹10円でよく働いた姪
ハマスナホリガニ
奄美以南の海辺にいるミナミスナホリガニは体長4cm。ハマの4倍だ。体積(重量)は4の3乗だから64倍。十分に食べがいがある。
10月2日大潮の日に、奄美行きを決めた。もちろん、博物館の原稿受け取りという「仕事」のおまけだ。ところが直前に、「原稿ができていない」という連絡。ほかにもいろいろ予定を入れたので今さら変更するわけにもいかない。結局、カニ捕りが第一の目的になってしまった。
フェリーにバイクを載せて、いざ奄美へ。目的地は大和村大棚の砂浜。13時、干潮。11時から開始した。
第一の誤算は、奄美の砂の粒径が大きく波に当てても網から砂が出ていかないこと。掘った砂を上まで運んでばら撒かざるをえない。第二の誤算はいないこと。何回砂を運んでも、いない。20回も掘れば息が上がる。捕れなきゃ何のために来たのか。21回目、やっと1匹ひっくり返った。これぞ、ミナミ。やったー。捕ったぞー。
1匹いたら、もう1匹いる。自分を励ましながら、延々と砂掘りが続いた。10月とはいえ、炎天下。およそ2時間、300回、2トンは掘っただろうか。
疲れ果て、何度も砂の上に寝転んだ。結局、収穫13匹。死んだら殉職になるだろうか、なんて思いながら、なんとか第一の目的を達成した。
大棚の砂浜
ミナミスナホリガニ
抜群の素揚げ
これも旨い塩茹で
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鹿児島の薩摩半島の西海岸には、日本三大砂丘といわれる吹上浜が、南北40kmにわたって連なっている。
私は、教員の父について10歳まで吹上浜北部に位置する市来で暮らした。
浜辺でキサゴの貝殻を拾い、指の間に挟んで笛にした。その笛は、松林で陣取りをするときに、味方への合図に使った。
潮が満ちてくると波打ち際に砂で城を作った。どれだけ大きく作っても、波で少しずつ砕け、すぐ後ろにまた別な城を作ることになる。飽きることなく、波と砂で遊んだ。
日が沈むときは、ひときわ大きく輝く太陽が眩しかった。海の向こうには甑島が横たわり、その向こうは果てしない海だ。
流れ着いたガラス瓶を流木の上に並べ、西武のガンマンよろしく石を投げ命中を競ったこともある。割れたガラスでしょっちゅう足を切ったのも自業自得だ。
母は、波に寄せられてすぐ砂に潜るナミノコガイ採りがめっぽう好きだった。潜り切れず、砂に立ったやつを波をよけながら拾っていく。ナンゲと呼ぶその貝は、30分もすれば、袋一杯になった。
そういえば、母の弟は、50歳の時吹上浜沖にタコ採りに行ったまま帰ってこなかった。舟が壊れ、遭難したのだ。
父は、梅雨が明けるとキス釣りだ。干潮の川口でゴカイを掘り、潮が満ちてくると岸に寄ってくるキスを狙う。盛期には浜辺に数メートルおきに釣り人が並び、それでも、2、3時間で100匹はものにしていた。このキスも原発のせいでほとんど消えてしまったけれど。
父の出は日吉町、母の出は吹上町、いずれも吹上浜沿いだ。いうなれば、私は、先祖代々ずっと吹上浜を見て暮らしたその末裔だ。
こんな話を並べたてたのも、今吹上浜に大問題が起きているのだ。吹上浜沖の洋上巨大風車群の建設計画だ。
この計画を報じた南日本新聞には、記事の最後に「住民の不安をどう払しょくするか」と書いてあった。何の問題もないけど、無知な住民にきちんと説明しましょうネ、という意味だ。
景観破壊が言われる。だが、海を見ながら育った身からすると、景観などという生やさしいものではない。海とともにあった先祖を含めて私たちの過去が汚され、消されようとしている。例えるならば、どの墓も花を絶やすことのない墓地で、突然墓石がなぎ倒され、糞尿を掛けられるようなものだ。
馬鹿なことから今すぐ手を引け!体の底から憤りが湧き上がってくる。
8月15日は終戦記念日だった。コロナで規模が縮小されたとはいえ、日本中、いたる所で、戦没者追悼の式典が催された。
新聞テレビで、関連する報道がなされたが、腑に落ちない言葉に接するはめになった。
一つは、「今日の繁栄は、尊い犠牲の上に築かれたもの」というもの。
歴史は連続するので亡くなった先祖はみな尊いのだが、戦没者は特別に尊いとでもいうのだろうか。戦争に負け、残されたのは焼け野原だ。そこから産業を興し、村々で食べ物をこさえたのは戦没者ではない。
戦没者が繁栄の土台になったというこの言葉は、全く意味が分からない。
でも、「忠心より敬意と感謝の念を捧げます」と続く言葉で、意図することが分かった。普通に働いて死ぬより、国のために死んだ兵隊さんは偉い、ということなのだ。
来るべき日中戦争か、第3次世界大戦に備えて、国のために死ぬ若者は偉い、と今から刷り込もうという魂胆なのかもしれない。いずれも、全国戦没者追悼式での安倍首相の言葉だ。
戦没者を褒めたたえることは、現役の自衛隊員、ひいては戦争への礼賛につながる。
もう一つ。「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」。これも安倍首相の言葉。不戦の誓いというやつだ。これは、カモフラージュに過ぎない。
安倍首相は、アメリカから戦闘機やミサイルをじゃんじゃん買い、奄美や馬毛島の軍事基地建設に血眼になっている。九条を骨抜きにする憲法改正にも熱心だ。
軍隊を持たないという日本国憲法の公布は1946年。だが、1950年、朝鮮戦争勃発とともに自衛隊の前身警察予備隊がGHQによってつくられた。日本から朝鮮半島へ移動する米軍の後方部隊としての位置づけ。
51年、サンフランシスコ講和条約で独立の回復とともに日米安保条約締結だ。以降、冷戦の終結でソ連から中国へと仮想敵国は変わるものの、いつも自衛隊は戦争好きなアメリカの軍事戦略の駒としてあった。
先の知事選で「九条実現」を掲げた横山ふみ子さん。そう、九条は一度だって実現していない。それにしても九条は美しい。
「第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。」
6月末は結構忙しかった。知事選に立候補して下さった横山さんの応援であちこち出向いていた。
普段は外に出ているときに会社から電話が鳴ることはない。長い時間をかける本作りの仕事で、緊急の要件なんてほとんどないに等しいからだ。
だが、その日は違った。大変なことが起きている、とスタッフの坂元からの電話。2階に積んである布団の真ん中に糞が乗っかっている。廊下には水たまり。それが、酷いにおいだから多分尿だ。電話の興奮した口ぶりから大変さが伝わってくる。
いつか台所に置いた魚を音もなく咥えて行ったネコだろう。会社に帰ってから、棒を片手に70坪とけっこう広い室内を隈なく回ったがネコはいない。その日、きちんと戸締りして入ってこないようにした。
だが、翌朝も事件は起きた。また布団の真ん中に糞が置かれていたのだ。廊下の隅っこにも、これまた大量の糞。尿もあちこちに撒かれ、玄関のスリッパは食いちぎられて、20mほど離れた別な部屋に放り出されていた。
スリッパに残された噛み跡を見ると、キリの先端で突いたようになっている。
何だ、これは!ネコではない。イタチだ。夜行性のイタチが会社に住み着いてしまったのだ。昼間は、ほとんど本の在庫置き場と化した会社のどこやらに息をひそめ、夜になると我が物顔で走り回っていた。廊下に残されていた糞を見ると玄関に置いてある鶏の餌を食べていることが分かった。
縄張りを誇示しようと糞や尿をあちこちにして、おまけに酷いにおいがするのもイタチならではだと合点がいった。 なるほどね。今年の梅雨は雨が多かった。このイタチ君、たまたま開いていた玄関の隙間から雨を逃れようと入ってきた。そこには鶏の餌があった。こりゃいいや、お腹もすいていたし、ちょっといただこう。失礼、ちょっと上がります。広い廊下を過ぎて2階に上がると布団が積んである。なかなかいいお家だ。ずっと住まわせてもらおうか。他の連中が来ると餌を独り占めにできないから、あちこちにウンチとオシッコをして、俺の領土だと宣言しよう。昼間は人間がうるさいけど、本の隙間がいっぱいあるから、どこに寝ていようと見つかりっこない。楽園だ。わーい、わい。
でも、こっちはイタチに事務所をくれてやるわけにはいかない。坂元が注文の本を段ボール箱から取り出そうとしたら、オシッコでびしょびしょの本を掴んでしまったと泣きそうになっていた。けっこうな損害だ。布団も3枚駄目になった。
さあ、どうしよう? こんなことに詳しそうな木下君にさっそく電話。「忌避剤があるよ」。ニシムタの在庫を買い占めて、あちらこちらに置いた。今度は戸締りせず、イタチ君が逃げ出せるように夜も玄関を開けておいた。
あれから2週間、イタチの気配はない。忌避剤の匂いを嫌って、どうやら出て行ってくれたようだ。
選挙とともに過ぎて行った怒涛の日々だ。
]]> ジ……ジ……ジ……。このセミの鳴くような音が1週間前からずっと聞こえている。最初は電気の音かと思ったが、外でも聞こえる。そうか、これが耳鳴りか!初体験だ。
原発の会議に最近メニュエル病でひっくり返った人が来ていた。会が終わってから、耳鳴りのことを話したら、すぐに耳鼻科に行け、と真顔で言う。サラの赤星さんは、「俺の知り合いは、放っておいたら、本当に聞こえんようになったぞ」。周りの何人かも、口を揃えて、それは大変、すぐ行け!
すっかり脅されたもんだから、翌朝、草牟田の飯田耳鼻科へ飛んで行った。
昨年、蓄膿で行ったときはワンサカ患者がいて、ずいぶん待たされたものだが、閑古鳥が鳴いている。コロナだ。
すぐに通されて、診察が始まった。耳の中を覗き込んで、「あっ、きたな」と言いやがった。余計なお世話だ、おいらは耳鳴りの治療に来たんだ、とは言わない。大きいのをピンセットでホイホイと取って、後はミニチュアの掃除機で吸い込んでいく。うん、きれいになった、と先生も嬉しそう。
さて、聴力検査。右耳、左耳、順にやったが、よく聞こえていますねー。63という歳の平均よりずっと成績がよかった。結局、耳鳴りと気長に付き合いなさいね。つまり、放って置けということですね、と聞くと、そうです、と返ってきた。何だかほっとした。
耳鳴りと難聴が同時にあったらやばいらしい。こいつは2週間以内の治療開始が聞こえなくなるかの境目。皆さん注意してね。
ときに耳鳴りはストレスが原因ともいう。そういえば、この1週間、決算でずっとパソコンの数字とにらめっこしていた。何せ、550点も出しているから、その1点1点の在庫、つまり資産の計算をしなくちゃならない。とっても面倒。数字がよかったらまだましだが、これも酷い。3月の売り上げは前年比40%ダウン。ついでに言うと、4月も40%、5月は60%ダウンの体たらく。コロナだ。
3月以降、都市圏の書店はほぼ全滅。図書館も休館しているから入れてくれない。アマゾンのネット書店は、実入りのいい他の商品にシフトして、南方新社だけでなく、どの出版社も売れ筋の本は軒並み在庫なし(仕入れていないということ)の表示。頼みの奄美の土産物屋も、市長が観光客は来るな、と言っている。八方塞がりだ。
最初、コロナ騒ぎを、下田の田舎から高みの見物とせせら笑っていたが、こんな所までやってきた。やれやれ。
仕方ないから、今じゃ、せっせと畑に植える作物を増やし続けている。オクラに大根、ヘチマにキュウリ、ニガゴリ、ルッコラ、チンゲンサイ……。
前々回だったか、魚の良し悪しくらい自分の目と鼻で確かめろ、と書いた。魚食いのプロを自認する私だが、ついにへまをやらかした。
先日の日曜日、アラカブ釣りの餌を買おうとスーパーに立ち寄った。目指すキビナゴはなかったが、その代わり刺身用とシールを張った丸々と太ったサバが売られていた。一本380円。目は澄んで黒々としている。こっそり腹を押したが固い。こりゃいいやと大喜びで買った。
釣りの餌はイカゲソで代用したが、これも大釣り。釣りたてのアラカブの味噌汁とシメサバの豪華な晩飯が目に浮かぶ。
帰宅してサバの腹を開いた。内臓もしっかりしている。古いやつは腸が破けてドロドロだったりする。これなら大丈夫。三枚におろして、塩を振って30分。しみでた水けを拭き取って酢に浸ける。はい、1時間で立派なシメサバの出来上がりだ。
皮を剥いで、刺身に切り、ワサビと醤油で食べる。旨い。次々と腹に収まっていく。脂も乗って最高だ。と、身に糸くずのようなものを発見。おっ、これは。アニサキスだ。危ない、危ない。指できれいに取り除いて、潰してティッシュで拭いて、と探したが、目の前にティシュはない。まあいいやと口の中にパクリ。片面をきれいにたいらげ、残りの片面は明日の楽しみ。
満足、満足、と床に就いた。
食べて2時間後、最初の異変で目が覚めた。何だかむかむかする。吐きたいけど、もったいない、気のせいだ、そのうち治まるだろうと、何とか眠りについた。また、その2時間後。今度は手の平の異様なかゆさで目が覚めた。かゆい、かゆい。そうこうしているうちに、腹や胸、背中までかゆくなってきた。しまいには足の先から頭のてっぺんまでかゆい。こりゃ、たまらん。
腹を見たらポツリポツリ、蕁麻疹が出ている。えらいこっちゃ、サバに当たった。しかもアニサキスだ。口に入れたのがまずかった。糸くずのような子虫が目に浮かぶ。
あわてて着替え、ぼりぼり掻きながら夜間救急診療を探し始めた。さあ、カッコ悪いけど行こう、と思った時、かゆみが治まり始めているのに気が付いた。およそ1時間の騒動だった。
翌朝、蕁麻疹は引いていたけど、なんだか胃がしくしくする。潰したやつのほかにも、何匹か飲み込んだようだ。これはネットで調べた正露丸で退治した。主成分のクレオソートが虫のやる気をなくすという。
ちなみに、アニサキスは虫のかけらでもやばいらしい。恐るべき子虫だ。だけど、ああ、旨いシメサバが食いてえ。のど元過ぎれば、だ。
免許更新の連絡が来た。
行ってみると更新の講習は3段階に分けられていた。優良運転者(ゴールド免許の人)30分、一般は1時間、違反者講習は2時間だ。5年間に違反ゼロなら優良、1回なら一般、それ以上は違反者となるらしい。私は、しょっちゅう警察にカンパしてるから、もちろん違反者だ。
いつもこの2時間コースだから苦にならない。それどころか、この罰ゲームのような2時間がとっても楽しみなのだ。大方の人が面倒くさそうにしている。中には高校時代の授業よろしく、本を読んでいるふりをしながら寝ている人もいる。
今回の講習で分かったことがある。
鹿児島の死亡事故はどうして起こるのか、ということ。若者の無謀運転、居眠り、よそ見運転、違うんですね、これが。高齢者が夜、道路の横断中にはねられるのだ。これがダントツで多い。それも、田舎道でのこと。
じゃあ、運転者から見て左から飛び出す人と右から渡ってくる人は、どちらが多いか? 圧倒的に右からの人。つまり、右から渡ってくる老人が、渡れるだろうと渡り始めたものの、足が弱っているので渡り切れずはねられてしまうというパターン。
さらに車のライトの構造がある。遠くまで見えるハイビームならともかく、ロービームではちょっと先までしか見えない。おまけに、対向車の運転手がまぶしくないように、左側を向いているという。これは初耳。
右からよたよた渡ってくる年寄りは、全くノーマークとなる。
私もよく日吉町の田舎に通っている。車の少ない夜はビュンビュン飛ばす。だけど、右からの年寄りには要注意だ。この講習ではねずに済んだ。
こういうことは誰かに話したくてしょうがない。会社に帰ると誰かれ構わず呼び止めて説明した。ついでに、からいも読者にもお知らせした次第。
ついでにもう一つ、覆面パトの見分け方。先日、車で熊本に行った。
人吉を過ぎたあたりで路肩に停まっていた車がのろのろと車線に入った。こいつは、覆面パトに違いないと直感。その後を80kmくらいでついて行ったら、ブーンとワーゲンが追い越していった。こいつは餌食になるな、と思ったら案の定、覆面は追い越し車線に入ってブーンと追尾。高速バス停の空き車線で切符を切っていた。
これで覆面の追尾のやり方が分かった。のろのろ車を追い越して、すぐに追尾してきたら、そいつはやばい!ということ。ちなみに、白バイ警官のような空色の制服にヘルメット姿二人だった。助手席に誰か乗っていたら、追い越すとき見てもらったらいい。
このところ連日セリを食べている。
以前書いた水騒動で作る羽目になった田んぼのセリが順調に育っているのだが、その田んぼの畦が壊れてしまった。直すのに重機を入れるという。セリが押し潰される前に、出来るだけ食べようというわけだ。セリの主役は葉っぱではなく茎や根っこだということを初めて知った。
葉っぱの見かけは華やかだが、火を通せばクシュンとなる。風味が強く満足度が高いのは茎と根っこなのだ。
それはともかく、今回は魚の話。
反原発の運動に関わっていいこともある。南方新社に月に1回か2回、四国伊方原発の近所の住人・井出さんから魚が送られてくる。それも、はらわたとウロコをきれいにとった段ボールひと箱分である。彼は魚の仲買の仕事をしているから、見込み違いで売れ残った魚なのだろうけど、魚好きの私にとってはありがたい話だ。
先日、私の留守中に届いた魚が、親戚にまでお裾分けされていた。親戚だから気安く聞いてきたのであろう、その夜電話が来た。「もらった魚は、刺身で食べられますか」と。
魚が来たのは私の留守中だったから見ていない。だから「目が澄んで、身が固かったら大丈夫。ちょっと臭かったら止めたらいいし、食べてみてウゲッときたら吐き出すだけだ」と答えた。普段なら、何にも気にせず親切に教えるのだけど、だんだん教えるのが悲しくなってきた。
ちょっと待てよ。彼は40過ぎの高校教員である。親戚の教員なら食べ物の良し悪しくらい、自分で判断してほしいもんだ、と。
たしかに、魚に消費期限は書いてないし、刺身用とか煮物用とかのシールも貼ってはない。だけど、スーパーなんかでシールを貼るのは人間だ。商売のリスクを加味しながら、その人の勘で貼るに過ぎない。だいたい見れば分かる。触ったらなお分かる。匂いを嗅いだら決定的に分かる。
草刈り機やチェンソーを動かすとき、それが初めてなら人に聞いたり説明書を読んだりしなければならない。だけど、機械と違って、人間が生きていく上で一番大切な食べ物である。たかが魚、ではないのだ。それを40年も生きてきて、自分の五感である視覚、触覚、嗅覚、味覚を信じないで何を頼ろうというのか。
茨木のり子の詩「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」を言い換えるなら、「自分の五感くらい 自分で磨け」である。
願わくは、彼には、テストの成績ではなく、子どもの目の輝きを見てこの子は大丈夫だとすぐに分かる教員になって欲しい。
私が田んぼをこさえている七窪水源地の谷に、猪が出現したのは昨年の稲刈り前のことだ。
いつものように、谷沿いの小径をバイクで走っていると、すぐ下の田んぼをやっている爺さんに呼び止められた。「大変なことになった。猪が田んぼに水飲みにやってきた」。水飲み場のすぐそばの藪に、獣道ができている。山からここを通って田んぼに来たらしい。
猪が田んぼに入ったら、米は食うわ、大便小便はまき散らすわ、臭くて全滅だという。えらいこっちゃ。
人間の匂いを嫌うというから、あわてて髪の毛を撒くことにした。会社には美容師の卵の息子を持つスタッフがいる。事情を話すとすぐに袋一杯持ってきてくれた。
撒こうと手に取ると、あろうことかみんな茶髪だ。有機無農薬のアイガモの田んぼには似合わないが仕方ない。畦に点々と茶髪の山を作った。
上の畑では、からいもがやられた。畑の主のおばちゃんが、「シシが出たー」と興奮している。人間の匂いを嫌うらしいよ、と言うと、翌日には、からいも畑の畝に突き刺した棒に、シャツが吊るしてあった。
おばちゃんの汗で、臭くなったやつだ。対策の記念に写真を撮ろうとすると、恥ずかしいから止めてくれと、赤くなっていた。
私の田んぼは、アイガモが逃げないようにネットで囲っている。だから、よその田んぼ畑よりましだろうと思っていたが、さすがに稲刈りの数日前にはネットを片付けなくてはならない。ネットなしの数日は緊張の日々が続いた。
ネットをはずした翌日にはタヌキの足跡があった。そのまた翌日、何と猪の足跡! タヌキは5本指、猪は蹄だ。二つの指を押したように跡が残る。紛れもなく猪だが、小さい。ウリ坊のようだ。ひやひやしながら、どうにか稲刈りを迎えることができた。その数日後には、立派な大人の猪の足跡が田んぼに残されていた。
あれから3カ月。谷から猪の気配は消えていたが、先日、下の田んぼの爺さんに呼び止められた。谷の南側の丘でビニールハウスが被害に遭った、大騒ぎで罠を仕掛けているという。
猪とて人間を困らせようという気はないだろう。所有の概念のない猪には、自然のものと人間のものとの区別はない。苦労して固い地面を掘らなければならない自然薯と、柔らかい畑で簡単に掘れるからいもがあれば、私が猪でもからいもを選ぶ。
もともと、この辺りの谷や丘は猪のものだった。罠にかかって八つ裂きにされる猪が不憫でならない。
アイガモの田んぼ
からいも畑の猪対策、おばちゃんが汗臭いシャツを吊るす
タヌキの足跡
猪の足跡
ついでにスズメが米を食べた後
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『北朝鮮墓参記』という原稿が舞い込んできた。
戦争中、父親の鉄道関係の仕事の都合で一家は北朝鮮で暮らし、著者もそこで生まれた。戦争に負けると、ソ連軍が進駐し、一家は日本を目指す。翌年6月、やっと鹿児島に帰り着いたものの、9人家族のうち祖母と父、幼い弟2人、合わせて4人が戦後半年のうちに亡くなっていた。とりわけ、祖母と父は、満足に葬ることもできず、打ち捨てるように帰ってきたという。
4人の眠る地をもう一度訪ねたいという願いが、87歳になってようやく実現したのだ。
肉親の死、あるいは遺体というものが、そこまで人を駆り立てるものだと、あらためて思った。
ちょうど手掛けている『奄美の復帰運動と保健福祉的地域再生』という本に、戦争中、奄美大島大和村の山中にグラマンが墜落した話があった。
戦後、奄美は米軍政下におかれる。すぐに軍政府が遺体の調査に向かうと、乗員3人の遺体は地元の人達が丁寧に葬り、その場に十字架まで立てていた。軍政府の役人は、村人にいたく感謝したという。
敵兵でありながら、きちんと弔った島の人の心根を思わずにいられない。
それに引き換え、とでも言いたくなる話が、足もとにもあった。
南方新社は、下田のシラス台地の上に事務所を置く。その崖下には、七窪水源地がある。戦前、市内の水道のほとんどを賄っていた水源地だ。
1945年、終戦の年の6月に鹿児島市街地も大規模な空襲に晒された。幸い被災を免れた市役所の重要書類を疎開させようと計画されたのが、七窪水源地の崖であった。崖に横穴を掘って保管庫にしようというもの。
ところがその建設中、7月27日にまたも空襲があり、あろうことか、水源地も標的になって4発の爆弾が落とされた。米軍も市民に打撃を与えようとこの水源地を狙ったのだろう。
この七窪水源地爆撃で、地元民数名とともに、朝鮮人の作業員十数名も死んでしまった。
ときは7月末、遺体の腐敗は進む。もちろん日本人は墓に葬られたのだが、朝鮮人の遺体がどうなったかは分からない。伊敷の45連隊の兵隊たちが水源地の復旧作業をしたというが、おそらく、その辺りに埋めたに違いない。(『七窪水源地爆撃記録』南方新社より)
ふるさとには、親兄弟はもちろん、妻子もいただろう。戦後74年経った今、死んだ朝鮮人の名はおろか、その事実さえほとんど知られず、遺体は打ち捨てられたままだ。
せめて、慰霊碑だけでも作れないだろうかと思う。
]]>11月9日、1時間かけて、のこのこ宮之城まで出かけた。北薩の最高峰、紫尾山(1067m)に計画されている大規模風力発電のシンポジウムが開かれたからだ。
紫尾山の頂上部を除く尾根筋全域に巨大風車が165基、これまでの日本最大の風力発電の7倍、60万kwというから、原発並みの発電施設になる。
半年ほど前から聞いていたが、深く考えることはなかった。この日、2時間、じっくり資料に目を通し話を聞くうちに、こりゃすごいと、唸った。
20kmも届くという超低周波音。牛、豚、鶏は餌を食わず、乳も出さず、卵も産まなくなるという畜産被害が想定される。もちろん人間にも影響が出る。特に子供が心配だ。
風車に向かって飛んで行ったワシが一瞬のうちにグシャッと風車の羽根で叩き落とされる映像が流れた。北海道で撮影された映像だ。思わず、ワッと声を上げた。バードストライクというやつだ。聞くと見るとでは大違い。実にたまげた。今回の協賛団体である野鳥の会が反対の声を上げるのも、もっともなことだ。
何より私の脳裏をよぎったのは、紫尾山の昆虫、植物が壊滅的な打撃を受けるということだ。計画されている風車は、鹿児島中央駅の観覧車アミュランの2倍の直径120m、高さも2倍の180mになるという。羽根一枚の長さは60m、柱は90mだ。一体どうやって運ぶのか。
紫尾の尾根筋には林道が走っているが、それはせいぜい5m前後に伐った木材をトラックで運ぶための道だ。山肌に沿って急カーブが連続する林道で、60mの羽根や90mの柱はとても運べない。山を削り谷を埋めた直線の道じゃなければ無理というもの。
かくして紫尾山の尾根沿いの森は大規模な伐採と、土地改変が行われることになる。
地球は、1万年少し前の最終氷期から徐々に温暖化している。それにつれて、最終氷期の前に進出した北方系の生き物たちは少しずつ北に追いやられてきた。鹿児島では、紫尾山、霧島山、高隈山の尾根筋に生き残ることになる。
つまり、学術的にも貴重な日本の生物の南限種群が、一瞬のうちに壊滅する危機に立たされているというわけだ。
だが、この事実はほとんど知らされていない。鹿児島大学の生物の教員に「こんなことがあるよ」と話したが、「全然知らなかった」と驚いていた。
原発もダメだが、再エネという美名に隠れた大規模風力発電も、やめておけと言うほかない。まさに度を越した自然破壊の元凶だ。
]]> 11月16日、奄美出張が入ってしまった。出版社をしているから奄美の本屋さんへの営業は当然なのだが、編集の仕事が立て込んでいる今、とても営業に割く時間はなく、出来れば避けたかった。
理由は、骨髄バンクのイベントだ。これまで2年連続2回、地元の音楽家がチャリティーコンサートを開催してくれている。ボランティアだから交通費は出ない。2回とも営業にかこつけて参加していた。
今回は3回目、鹿児島から他のメンバーも行くのでよかろうと思っていた。だが、イベントに合わせて、奄美のボランティア組織が立ち上がる。この大事な時に何だ、という。実は、私は、かごしま骨髄バンク推進連絡会議というドナー登録を増やすためのボランティアの会の代表をしているのだ。
今から27年前のこと。Uターンした直後、高校時代の同級生から連絡がきた。私と同じ下宿にいたS君が白血病になったという。同級生と一緒に鹿大の専門医・川上清医師の所へ話を聞きに行ったのを、はっきりと覚えている。生存の手立ては唯一、骨髄移植だけ。移植のためには、何万人に一人という白血球の一致するドナーを見つけなければならない。
欧米では、その何十年も前から骨髄バンクができていたが、日本では出来たばかり。Uターンして仕事もせず、しばらくのんびりしようと思っていた私は、急いで同級生に呼びかけドナー登録を呼びかける会を作った。
白血病患者は長くは生きられない。時間との闘いだった。結局ドナーが見つかることなく、感染症(肺炎)で半年後に彼は死んだ。残された嫁さんと二人の幼子が何とも不憫だった。
それからも、骨髄バンクから抜け出せずに、今でも活動を続けている。「知ってしまった責任」とでも言おうか。
人は見たいものを見て、聞きたいことを聞くという。骨髄バンクの存在が広く知られるようになった今でも、多くの人が、自分には関係ないと、正面から見ることなく通り過ぎていく。ドナーが見つからず死んでいく人が、毎年1000人いるというのに。
もう一つは原発。四十数年前、大学の講義で市川貞夫先生から聞いた話。
原発から日常的に放出される大量の(電力会社はごく微量という)放射能のせいで、原発から近ければ近いほど植物の突然変異が多いという。人間が、がんや白血病になるということだ。事故は破滅的被害をもたらすが、事故がなくても、放射能を出して人を害しながら電力会社は利益を得ている。
あのとき、電力会社の非道が胸に刻み込まれた。
9月7日、坊津へ釣りに行った。
鹿児島にUターンする前に勤めていた会社で、30年程前に一時名古屋支社にいたことがある。その時に世話になった取引先の知人が、なぜか、縁もゆかりもない坊津で民宿を始めたのだ。屋号は「夕焼け」。2012年の知事選の折にも、はるばる名古屋から応援に来てくれた。実に気のいい人間だ。
おまけに、小学6年の息子は、目の前の海で腕の太さほどのマゴチを何本も釣り上げているという。行かぬわけにはいかない。
マゴチは先ず小魚を釣って、それを餌にして置き竿で待つ。狙いをマゴチに据え、竿を4本抱えていそいそと坊津へ向かった。
3時過ぎ、宿に着くと、休む間もなく海へ。小物釣りの道具で先ず小魚を狙う。釣れる、釣れる。スズメダイ、オヤビッチャ、フエダイの子供も何種類かかかった。まずまずのイスズミもゲットだ。でも、大物釣りの餌には大きすぎる。
そのうち知人が、小アジ釣りのサビキ仕掛けを持ってやってきた。かかった小アジを餌にして海に放り込んでおく。小6の息子も放り込む。何の変化もないまま、私の小魚釣りが続いた。
と、突然、息子の竿が曲がった。大物だ。ぐんぐん引かれ懸命にこらえている。バキッ、竿が折れた。あー、もったいない。
見ると、私の置き竿も、竿先がグーッと海に突っ込んでいる。慌てて竿を取ろうとしたが、ブツッ、音を立てて糸が切れてしまった。5号の糸だから、そこそこの大物には耐えるはずだが、ものの数秒で切られてしまった。
時計を見ると5時過ぎ、夕まづめだ。魚の釣り時は、朝と夕のまづめ時。これは釣り人の間では広く知られた定石だ。太陽と水平線の間が詰まるから間詰というらしい。
朝は植物プランクトンが太陽の光を求めて浮き上がり、夕方は夜行性のプランクトンが活動を始める。それを待ってましたとばかりに小魚が大喜びで群れ食べ、この小魚を目指して大物が回ってくる。
その後も立て続けに3回ほど大物がかかったが、糸が耐え切れず、結局姿は見れずじまい。
逃げた魚は大きいというが、紛れもない大物だった。しかも、引き方の違う何種類かがいた。いまでも、ブツッと糸が切れた瞬間の映像がはっきり目に焼き付いている。
今度は10号の糸に、腰の強い竿を持って行こう。坊津の海にゆっくり回ってきた怪魚の顔を見るまでは、どうも落ち着けない。
それにしても、人間を相手にするより魚相手の方がずっと面白い。
イトフエフキ キュウセンフエダイ
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夜の10時過ぎ、中央駅前の大通り片側3車線の歩道側の車線は停車中の車が数珠つなぎだ。何だ、これは!
どこぞの店の大売り出しかと思ったが、こんな夜中にそれはない。変なの、とやり過ごしたが、そこを通るたびに、いつも数珠つなぎの車だ。
後になって、謎が解けた。学習塾帰りの子を待つ親たちの群れだった。
注意して見ると、大手の学習塾の周辺では、それこそ何百メートルもの車列ができるが、小規模の塾でも、終わりの時間前には、ちゃんと車の列ができている。
かわいそうな子供たち。勉強の好きな子なんて、千人に一人もいないに違いない。それなのに学校が終わって、ふー、と息つく間もなく、今度は塾で勉強だ。こんな牢獄のような暮らしで、おかしくならない方が変だ。
子供たちの不登校が激増していると聞くが無理もない。むしろ嫌なことを嫌と反応するから、まともとも思う。
私たちの頃は、4、50年前にもなるけど、塾なんてそもそもなかった。どの家庭も余分なお金はなかっただろうし、ちゃんと予習、復習する子がいたら、「やーい、ガリベン」なんて囃し立てられたものだ。だから、もし塾があったとしても、誰もいかないから、すぐに潰れたに違いない。
勉強ばかりすれば、確かに成績は上がるだろう。かくして、高校、大学はガリベンだらけの、牢獄を牢獄とも思わない子供たちで埋め尽くされていく。高校、大学はそれでもいいかもしれない。
だが、それを過ぎ、社会に出れば、数学、物理とか世界史とかほとんど無縁の世界だ。大半が日本人相手の仕事だから、英語すらも関係ない。
だとすれば、それまで苦労したことは20歳過ぎてからの長い人生の中で何の役にも立たないことになる。親もそれは知っているはずだ。役に立たないと分かっていることを、皆で一生懸命、大まじめにやる。原発の避難訓練と一緒で、マンガというほかない。
あるとすれば、耐える力、か。何も考えず、嫌なことを何時間でも何日でも、何年でもやる。いやいや。これじゃ役に立つどころか、よりよい奴隷のための長期育成システムだ。
その昔、勉強は長距離走と似ていると思った。どちらも嫌なことだから、集中して、できるだけ短時間で終わらせる。ずっとやり続けるなんて、我慢できないからね。
いずれにしろ、子供たちがこんなんじゃ、この先ろくな世の中にならないことだけは確かだ。
南方新社の本でも読んでくれれば、それだけ周りの世界が彩り豊かに広がってくるんだけどなあ。
7月3日、朝から降り続く大雨だ。鹿児島市は全戸59万人に避難指示を出し、県内では100万人を超えた。
市内の小中学校と幾つかの高校は休校となって、早々と翌4日の休みも決めた。ついでに、南方新社も明日は休みにしようと言うと、スタッフからたいそう喜ばれた。
6時きっかりに帰るスタッフをしり目に、だらだらと仕事をしていると、この大雨の最中、橋口さんからの電話だ。下田、川上で何ヘクタールもの田んぼをこさえる大農家だ。稲荷川の中流が溢れ、田んぼに泥水が流れ込んでいるというニュースが流れていた。咄嗟に、応援要請かと身構えたが、何のことはない。「大きいスッポンが獲れたから、食べるならあげるよ」と来た。川に棲むスッポンが、田んぼに迷い込んだようだ。
大喜びで貰い受ける返事をした。
翌朝、雨は大したことはない。市電も市バスも通常通り運行している。学校以外に休みにしていたのは、南方新社だけだったかもしれない。
まあいいや、とにかく休みだ、と布団に潜り込むと、町内会長からの電話。私の田んぼが大変なことになっているという。
こりゃ、一大事。小雨の降る中バイクを飛ばし早速駆けつけた。崖が崩れ、田んぼに木々が雪崩れ込んでいる。幸い土砂はあんまり入っていない。アイガモ逃走防止のネットが押し倒され、カモたちはどこかへ消えている。
でも大丈夫。「オーイ」と声を上げると、ガーガー、ガーガーと大喜びで、どこからともなく走り寄ってきた。と言っても私に懐いているのではなく、「オーイ」の後に撒かれる餌に懐いているのだ。
ともかく、この日、谷にはチェンソーの音が響き渡り、木々の処理とネットの張り替えで一日が終わった。
大汗をかいた肉体労働の疲れを取るにはスッポン鍋だ。いそいそと橋口さんちへスッポン貰いに出向いた。2キロはある大物だ。会社に戻り、2、3日は泥を吐かした方がよかろうと、唾を飲みながら、発泡スチロールの箱に入れた。逃げたらかなわんと、ふたの上にブロックまで載せておいた。
翌朝、会社に行くと、ふたが開いているではないか。ブロックも横に転がっている。逃げたのだ。慌てて草むらを捜したが、いない。何人か横一列になって捜す山狩りでもしなければ発見は無理だろう。かくしてスッポン鍋はあっけなく霧消した。
でも、スッポンとて命懸け。必死にふたをこじ開けたのだ。今頃どこかの水辺にたどり着いているだろう。スッポンの身になれば、自由を取り戻せて、万歳!だ。
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6年前に出した『海辺を食べる図鑑』は、いまだに好調な売れ行きを見せている。海辺の貝、海草、魚はもちろん、ウニ、ヤドカリ、ナマコ、カニまで136種類の獲り方、食べ方を紹介する本だ。136種といっても、まだまだ未掲載の種類も多い。
釣り好きの友人から、ハゼが未掲載なのは残念だという電話があった。ハゼは鹿児島ではあまり見ないが、宮崎以北では普通にいて人気の魚だ。こいつは昨年、本の営業がてら大淀川で竿を出してものにした。
奄美、沖縄では普通に釣れるモンガラカワハギの仲間も載っていなかった。皮が分厚く硬いため、包丁では歯が立たない。料理バサミで肛門から皮を切れば大丈夫。食べ方を知らず、ポイする人もいる。もったいない。これも、料理法を含め何種か写真に収めた。
こんなふうに刊行後もどんどん追加しているから、もう300種ほどにもなったろうか。
だが、もう一つ、絶対載せたいものが手つかずで残っていた。シーガンだ。奄美、沖縄ではずっと昔から食べられてきたから外すわけにはいかない。シーはサンゴ礁を指す。ガンはカニだ。サンゴ礁のリーフの先端、波の当たる際にいる。
いつでも獲れるわけではない。潮が大きく干上がる大潮の干潮でなければ、奴らの住処までたどり着けない。しかも、6月の梅雨時の産卵前が最高にうまい。となれば、一年の内にチャンスは6月の2度の大潮のときだけ。潮見表で確認したら6月5日水曜日が大潮だ。平日だけど船中2泊を含めて3泊の奄美行きを決行した。
干潮は午後2時。1時過ぎに北大島の目当ての海岸に着き、リーフの先端を目指す。潮が引いているので先端まではかなりの距離だ。それでも、気がはやるもんだから岩の上をピョンピョン跳ねていく。
波の打ち上がる先端に着いた。目指すシーガンは穴の中に潜んでいるから、タコの切り身を棒の先に結び付け、それでおびき出す。
ホレ、ホレと、穴にタコを突っ込んでいく。おっ、動かない。カニが爪でタコの身を引っ張っているのだ。穴の中のカニは獲れない。穴の入口から10?くらい離してタコを躍らせ穴の外へおびき出す。ほら出てきた。すかさず手でゲット。こんな具合で次々にクーラーボックスに収まったカニは、およそ50匹になった。
潮が上がるまでの2時間、十分遊んだ。だが、海には誰もいない。平日に海で遊ぶ暇人は島にいないのか。それとも、食べ物はお金で買う時代、シーガン獲りは見向きもされなくなったのだろうか。
すり鉢で潰して、茹でて出汁をとる。
出汁は味噌汁、天津飯の甘酢ダレほか、濃厚なカニの風味が楽しめます。
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ちょっと面倒な話に巻き込まれた。
南方新社は、下田のシラス台地にあるのだが、その下の台地の際からは豊かな水が溢れ出ている。戦前から鹿児島市民に給水してきた七窪水源地だ。
水源地から谷が開け、私は10年程前からその谷の下の方で田んぼを借りている。当時から、他の田んぼをやっているのは年寄りばかりなので、いつまでもつのだろうと思っていた。
予想通り一枚、また一枚と作るのをやめ、ついに一昨年、上から5枚の田んぼは全部放棄地になってしまった。
水源地になる前から、上の5枚の田んぼは湧水を引いていた。だから、市が水源地として所有してからも、田んぼのために水を流してくれていた。
ところがというべきか、やはりというべきか、田んぼ作りをやめてしまったからと市は水を止めてしまった。これに腹を立てたのが、わが町内会長だ。水を以前と同様流してくれるように何度も市にかけあったが、相手にしてくれない。
水は田んぼに入れるだけでなく、近くの年寄りが野菜や農具を洗ったりしていた。市街地近くで唯一ホタルの乱舞が残る谷でもあった。水の停止と同時にホタルも激減した。
なぜか私は、この谷の耕作者代表として市に申し入れすることになった。私の田んぼは水源地とは別の湧水を使っているのだが、まあいい。とにかく、町内会長が中心になって集めた約200名の嘆願署名を携えて水道局まで出向いた。
市側は丁寧に対応してくれたのだが、私は4分6分で水を流さない方になると予想した。
一方で、水利権の資料を読み漁った。水源地となる以前から田んぼに水を引いていた。だから住民には水利権がある。慣行水利権というやつだ。だったら田んぼをやればいい。米でなくても何か植えればいい。
私は市が結論を出す前にセリの栽培計画を即席で拵え提出した。というのは、放棄状態の田んぼの隅っこに、セリが元気よく生えていたのだ。
これで水を流さなかったら、逸失利益の損害賠償請求の裁判に出るまでだ。100%こちらの勝ち。案の定、市は水を流すと回答してきた。
耕作者代表として栽培計画まで出した以上、セリを植えないわけにはいかない。かくして、田んぼで腰を曲げてセリの田植えとあいなった。これまでの田んぼに加え、セリの面倒も見なければならない。
やれやれ、困ったもんだ。だが、うまくいけば来春、放棄された田んぼ一面セリが覆う。なんて素晴らしい景色。おまけに、セリ鍋という絶品料理にもありつける。ものは考えようだ。
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事務所のある下田の山沿いの小径に、マルバウツギの白い花房と赤いヤマツツジの花が競演する季節がやってきた。薄暗い藪にはコガクウツギの白い花。
薄暗いところが好きなコガクウツギ
黄緑色にもくもくと萌え盛る山には、ところどころにシイが白い花を咲かせている。枝という枝に、これでもかと言わんばかりに花をつけるものだから、遠目にはカリフラワーのように見える。
でも、木は人間を喜ばすために花を咲かすのではない。自分の子孫を残すための健気な行為だ。できるだけ際立つ色で虫を呼ぶ。
ずっと不思議に思っていたのは、同じ種類の木々が、ほぼ同時期に花を咲かすことだ。てんでバラバラに咲いたのでは、違う遺伝子と交配できない。
植物が話し合うと聞いたことがあるが、なんだかピンとこなかった。最近、ある種の化学物質を出して連絡を取り合っていると知った。花期が近づくと匂いを出す。そのかすかな匂いを嗅ぎ分け、一斉に花を咲かすというわけだ。
さらに面白いのは、自家交配を防ぐ手立てだ。小学校の教科書なんかでは、花の模式図として、真ん中に雌しべが立ち、その脇に何本かの雄しべが立つ。これでは、虫たちが蜜を吸おうと花の奥に潜り込んだら、同じ花の花粉が雌しべに着いてしまう。人間で言えば、兄弟で子を作るようなもので、強い子はできない。
だが、実際に花を見ると、雌しべと雄しべが同時に立ち上がることはない。たいてい雄しべが先に立ち、雄しべが枯れるころに雌しべが立ち上がる。雄性先熟という。逆の雌性先熟もある。
これなら、ちょっと離れた別の木の花粉が運ばれて雌しべに着いてくれるというわけだ。なんて賢いのだと、うなってしまう。
さらに徹底した種類は、雄花と雌花を別々に咲かせ、それぞれの花期をちょっとずらしたりしている。雄木と雌木を完全に独立させた種類もある。これなら、自家交配の心配はなくなる。
話は戻る。ひとつの花の中の雄性先熟はほとんど知られていないのだが、南方新社からいくつも植物図鑑を出している大工園さんが気づき、種類ごとの雄しべと雌しべの成熟段階を網羅した『植物観察図鑑』を出した。3年前のことだ。画期的な図鑑だと、植物の専門家からたいそう評価を受けたのだが、その後はどういうわけか鳴かず飛ばずだ。
大工園認著『植物観察図鑑』
でも、鳴かなくても、飛ばなくてもいい。
日本で一つ、世界でもおそらく唯一の図鑑を出したということで満足するのが、出版道というものだ。
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長引きそうと思っていた蓄膿も、さらの悠ちゃんが教えてくれたドクダミ療法で、あっという間に完治した。ドクダミがなかったから、ツワの葉をもんで鼻に詰めていた。するとどうしたことか、その翌日、スーッと黄色い鼻汁が流れ出た。ティッシュで拭き取っても、後から後から流れてくる。
噂に聞く蓄膿完治のサインだ。
3月16日は串木野に出向いた。原発反対の木下かおりさんが、県議選に出るという。その事務所開きだ。
何か喋れというので、串木野に関係のある話をした。
皆さん、食べ物で串木野名産と言えばなんでしょうか。そう、つき揚げです。
なぜつき揚げが名産になったかと言えば、魚が一杯獲れたから。川内川から流れ込む養分がプランクトンを育み、潮下に当たる寄田、土川、羽島、串木野に至る岩礁地帯は、それこそ豊饒の海だった。食べきれないほどの魚が獲れるものだから、余った魚や小魚をすり身にしたというわけ。
ところが今、つき揚げの原料の9割が、ロシアのスケトウ。魚が獲れなくなったのだ。漁獲はかつての5分の1。
串木野の魚が獲れなくなった理由は、串木野市民もほとんど知らないのだが、まぎれもなく川内原発のせいだ。
川内原発は川内川と同じ流量を常時取水している。その取水口で一日3トンの次亜塩素酸ナトリウムを投入して、プランクトン、魚の稚魚、卵を皆殺しにしている。さらに温廃水としてその塩素も放水口から流している。原発から土川、羽島まで、ワカメ、ヒジキといった海藻は全滅だ。藻の生えない海に魚はいない。
誰も知らない間に、死の海にされていたのだ。
陸上も、串木野は風下だ。排気口から放出される放射能に晒されて、実際健康被害も生じている。まさに踏んだり蹴ったりの街である。
嬉しいことに、原発の寿命は40年と決まった。川内1、2号機は今年で満35年と34年だ。あと5年で原発とはおさらばだ。そうなのだが、寿命の1年前までに20年延長申請ができるという例外規定がある。
申請の時期は、次期県議の任期中だ。こう考えると、あと5年で終わるのか、20年延長を認めるかを決する、重要な県議選である。
いちき串木野市の木下かおりさんは共産党で、その前に応援に行った薩摩川内市の遠嶋春日児さんは社民党だ。私は政党なんて関係ないのだが、気になることがある。遠嶋さんの会には共産党の顔が見えず、木下さんの事務所開きには社民党の姿がなかった。
野党統一の時代である。原発廃炉に向けて、ぜひ手を結んでほしい。切なる願いだ。
原発による海の破壊を詳しく述べた『原発に侵される海』
(水口憲哉著、南方新社)
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