学習性無気力

 

 自民党の裏金は大ごとになった。でもここに、悪うござんした、辞めます、という議員がいないのはどういうこと? 誰でも悪いことをする。金があれば、ばれないように貯め込もうという気も分かる。
 だが、悪事にはリスクが伴い、露見したら制裁を甘んじて受けるというのがこの世の掟。

 

 いまでも語り継がれる天下の大泥棒がいる。ねずみ小僧次郎吉だ。大名屋敷を襲い、奪った金を庶民にばらまいたのだが、捕まれば死罪が待っていたにもかかわらずやってのけたところが、庶民の喝さいを浴びた第一の理由だ。
 こっそり悪事を働き、自分のために金を貯め込み、ばれても議員に居座るなんて、掟破りも甚だしい。村八分、最低でも選挙権被選挙権の剥奪だ。そう思わないかい。


 でも、悪い奴は反省したふりをして悪事を重ねるもの。先日名古屋の友人との電話で、「次の選挙でもきっと通るんだろうな、そして戦争準備にひた走るってわけさ」と、投げやりに話したら、「それは学習性無気力って言うんだ。鼻をつまんででも自民党以外に入れなきゃダメ」と諭された。
 学習性無気力! なるほど、新鮮な言葉だ。下がる一方の投票率を見たら、この学習性無気力が日本中を幾重にも覆っているように思える。


 この2月、びっくりするような本を刊行した。『非暴力直接行動が世界を変える ―核廃絶から気候変動まで、一女性の軌跡―』だ。
 著者はイギリス人、アンジー・ゼルター。平和運動家の彼女は、東チモールで大量虐殺を繰り返していたインドネシア政府にイギリスから輸出されるホーク戦闘機の格納庫に侵入し、コックピットをハンマーで破壊(非武器化)した。またある時は、核兵器を搭載する原子力潜水艦の実験施設に侵入し、核制御システムを破壊した。


 いずれも無罪を勝ち取ったのはすごい。秩序派の判事はアンジーに批判的だったが、陪審員は無罪の評決をした。活動の範囲は、イギリスのみならず世界中だ。そして世界各国で約200回逮捕されている。

 

 ピースボート共同代表、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)国際運営委員 川崎哲さんが推薦のことばを寄せた。「日本でも、国家の大きなかけ声が人びとを萎縮させ、社会に沈黙と忖度を蔓延させています。そうした中にあって、国際法を使い、仲間と計画して、軽やかに街に出て、体を張り、素手で社会を変えてみせるアンジーさんの作法に、学ぶこと大です」

 

 無気力になりそうな昨今だが、力と知恵満載の本だ。

 

『非暴力直接行動が世界を変える』
著者:アンジー・ゼルター
訳者:大津留公彦、川島めぐみ、豊島耕一
仕様:四六判、326ページ
定価:本体2,300円+税


能登地震

 

 1月1日、元旦にとんでもないことが起きてしまった。能登半島地震だ。マグニチュード7.6、震度7を記録した。テレビでは、その夜ずっと火の海となった輪島の街が流されていた。

 

 私が一番気になったのは志賀原発だ。2011年の東日本大震災以降、停止したまま。停まってから12年も経っているから使用済み燃料の温度もだいぶ下がっている。プールの水が抜けない限り大丈夫だろうと思った。でも運転中だったら、おそらく日本は終わっていただろう。
 志賀原発は川内原発と違う型の沸騰水型原子炉だ。70気圧、280度の水が循環する。配管には何トンもの荷重がかかる。何といっても70気圧だ。地震の揺れで、少しでもひび割れができたなら、風船が弾けるように一気に水が噴き出して大規模に破断する。
 水が抜けたら、空焚きになって炉心溶融(メルトダウン)に至る。そして爆発!

 

 実は昨年2023年3月、この志賀原発の活断層に問題なしと規制委員会は判断している。地震の1カ月前の11月28日には、経団連の戸倉会長がこの原発をわざわざ訪ね、「早期の再稼働を期待したい」と発言し、圧力をかけていた。まさに再稼働目前だった。運が良かったというほかない。

 

 揺れの中心、珠洲市にも原発話があった。北陸、中部、関西の電力三社による共同事業として浮上していた。住民の強い反対運動でようやく2003年に凍結となったが、これが稼働していたら確実に日本は終わっていた。
 放射能の9割が太平洋に飛んだ福島事故と違い、能登半島発の放射能は偏西風で日本の陸地を覆う。東京まで十数時間で届いてしまう。
 政府は混乱を嫌い、簡単には発表しないだろう。ようやく避難が始まるのはかなり被曝した後。
 悲惨なのは能登の住民。60カ所もの土砂崩れ、無数の家屋の倒壊に放射能からの避難なんて無理。10日経っても孤立した人が3000人を超えていた。濃い放射能を散々浴びてから遅々とした避難が始まることになる。

 

 こうして福島とは比較にならないほど多くの人が被曝し、やがて日本の中部以北は無人の地となる。
 川内原発のすぐ近くには、甑断層、甑海峡中央断層が伸びている。国の予測では、マグニチュード7.5。断層がもっと原発側に伸びている可能性もある。川内は加圧水型で157気圧。空焚き30分で炉心溶融と報告したのは九電だ。

 

 地獄は、足元に大きく口を広げている。それでも原発を動かすというのは、余りにも吞気。言葉を変えるなら大間抜けだ。

 



2013年、国の地震調査委員会が、それまでの九電評価の活断層を「余りにも酷い」とのコメント付きで大幅に見直した。

九電M6.8→国M7.5となり、さらに原発よりに伸びる可能性も指摘した。その決着はついていない。


あれから30年

 

東京からUターン
 ちょうど30年前、私の暮らしは大きく変わった。92年8月、東京からUターンしたのだ。35歳だった。
 東京時代、仕事の移動には地下鉄を使っていた。客先に訪問予約を入れるから、渋滞のない地下鉄は所要時間が読めて便利だった。だが、月に1回くらいだろうか、「人身事故」が起こり大幅に遅れた。「事故処理が終わり次第、運行を開始する」とアナウンスは続いた。やれやれ、スケジュールが狂ってしまう、と迷惑がったものだ。同乗の誰もが、またかという顔をし、時計を気にした。
 そのうち、「人身事故」が飛び込み自殺であることがわかる。事故処理とは、バラバラになった遺体の回収作業だ。東京で仕事をするということは、人の死を何とも思わなくなることだと気がついた。
 Uターン後の95年には、地下鉄サリン事件が起こった。電車内に猛毒のサリンが撒かれ、16人が死に、6300人が負傷した。オウム真理教の仕業だ。東京の地下鉄の通路では、虚ろな眼をした幾千幾万もの人の群れが、憑かれたように真っすぐに進んでいた。事件を耳にしたとき、人の生き死にに麻痺した東京で起こるべくして起きた事件だと思った。
 人の死に麻痺するどころか、自然のかけらもない、人工物だらけの東京で、まともな子育てなどできるはずがないとUターンしたわけだ。
 もちろん、理由はそれだけではない。歳を取れば取るほど新しいことには億劫になる。40歳を過ぎたら東京から抜けられなくなると思った。

 

デビュー作は『滅びゆく鹿児島』
 Uターンして1年半後、94年4月27日、鹿児島市泉町に事務所を借り、南方新社を設立した。かといってすぐに本が出せるはずもない。
 1年余り後の95年7月に、デビュー作『滅びゆく鹿児島』を刊行する。取り上げた問題は、農薬汚染、埋め立て、川内原発、8・6水害を機に破壊されようとしている石橋、子供不在の教育、男尊女卑、公営ギャンブル、行き場のない農業、奄美の文化と経済である。
当時、鹿児島の一番店、天文館にあった春苑堂本店の湯田店長が一気に150冊を仕入れ、入口すぐの一番目立つところに平積み4面、塔よ倒れよ、というほど高く積み上げてくれた。これは今でも鮮明に覚えている。
 湯田さんが、特に本の内容に共鳴したわけではない。鹿児島に新しい出版社が登場したことを祝ってくれたのだ。
 「これで反権力の南方新社で決まりだな」とも言ってくれた。別に反権力を謳ったわけでもなく、当たり前におかしいことはおかしいと言いたかっただけだ。
 初刷りの4000部があっという間に完売したことで、私の言いたいことが独りよがりではなく、出版を続けていけるという自信になった。
 第2弾は、同年12月刊行の『かごしま西田橋』である。何の根拠もなく6000部を刷った。これが完売した時、西田橋は残ると思ったのだ。ところが翌96年の2月には西田橋の解体が開始し、大量に売れ残った。
 売れ残りは販売期間だけが原因ではなかった。本を売らなければならない私自身が、保存運動に突っ込んでしまったのだ。

 

1996年2月21日、西田橋に削岩機
 8・6水害では、甲突川五石橋のうち、新上橋と武之橋が壊れた。水害に耐えた玉江橋に続いて高麗橋が解体されたのは95年2月18日。5月からは最後の西田橋保存に向けて県民投票条例の署名運動が始まった。法定数を大きく超える4万3958筆が集まり、臨時県議会へ。11月10日の最終本会議の結果は、なんと50対1で否決。共産党議員1人だけの賛成だった。
 舞台は、県指定文化財である西田橋の現状変更を認めるかどうかを決める県文化財保護審議会に移る。ここはさすがに解体反対が多数を占めたが、11月27日にまとめられた結論は、県土木部の強引な主張で両論併記となってしまう。万事休す、だ。
 だが、どうしても諦めきれなかった私は、12月、世論調査を企画した。鹿児島大学政治学教室の平井一臣教授に相談し、無作為に抽出した1118人を対象に電話。結果は「県民投票すべきだった」が50.4%。「県民投票は必要なかった」は16.5%。「解体に反対」49.2%。「解体に賛成」44.6%。
 これをきっかけに、あくまで西田橋の現地保存の道を探ろうと、2月12日に市民集会とデモを実施。800人が参加した。
 2月17日からは私を含め4人のメンバーが無期限のハンストに突入した。極寒の中、西田橋のたもとにテントを張って泊まり込んだ。北畠清仁氏のハンスト突入宣言文は格調高く、今読んでも震える。
 だが、県当局は日程を変えることなく2月21日、解体に向けて削岩機を打ち込んだ。
 ハンストは、24日には自主的に解いたが、やりきれない思いは残った。
 それにしても、この石橋保存運動はよくぞここまでというぐらいに広範な支持を得ていった。私が関わったのは、最後のごく一部分である。
 運動を牽引していった都築三郎(故)、松原武実、芳村泰資、浜田美樹、石澤美智子、木原安姝子、児玉澄子(故)、西村輝子(故)、松基、萩原貞行の各氏の名前は忘れられない。


 その中から8・6ニュースが生まれ、今でも続き、南方新社と同じ30周年を迎える。
 利権政治と事なかれ主義の横溢する鹿児島で、8・6ニュースは、未来と真実を求める者たちの夜道を照らす灯火なのである。

 


解体直前の高麗橋上に陣取る市民(『かごしま西田橋』より。撮影:樋渡直竹)

 


西田橋解体直前のハンスト。後ろ姿だが、萩原、橋口、久保の各氏が写っている

 


在りし日の西田橋(『かごしま西田橋』表紙カバー)

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鹿児島市の郊外にある民家を会社にした「自然を愛する」出版社。自然や環境、鹿児島、奄美の本を作っています。

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