2006.7.15〜2006.12.19


2006.12.19 残った一万円札

 1216日、奄美大島へ出張。
 かつて鹿児島市に道の島社という出版社を構えていた藤井勇夫さんが亡くなって2年半がすぎた。初めて田中一村に光を当てた書『アダンの画帖−田中一村伝』、奄美の料理を紹介した『シマヌジュウリ』、植物の解説書『奄美の四季と植物考』など数々の名著を残したが、事業としてはうまくいかず、さんざん借金をこさえて郷里の島に消えた藤井さんだった。
 奄美では北部の村に郷土料理屋を開業したが、これまた客が来ず、開店休業の状態が続いた。それでも、若者には好かれていた。旅の若者に無料で宿を提供するものだから、口コミで訪問者は絶えなかった。そのまま村に住み着いたIターン者も20名ほどはいるだろうか。
 藤井さんが亡くなったときも、駐車場の草刈り、家の掃除、炊き出し……、ことさら目立ちはしなかったが、あらゆることを若者たちが取り仕切っていた。
 私が奄美についたその夜、偶然にも名瀬のライブハウスにその若者たちが集まっていた。島に住み着いた者はもちろん、東京、岡山からも駆けつけていた。私も喜んで合流。3時を過ぎていただろうか、深夜まで痛飲した。
 帰ろうとすると、ごっちゃんという子が見送りに出てきた。もうろうとする眼で財布をまさぐり、1万円札を取り出した。それをいくつかに折り曲げて、彼に渡そうとした。
 「若い者は金がいるだろう。少ないが取っておけ」
 「いやいいですよ。気を遣わないでください」
 「遠慮するな、俺は社長だ。飲み代の足しにすればいいだろう」
 「いやいや、本当にいいですよ」
 「何をいってんだ。命令だ取っておけ」
 5分くらい押し問答が続いたかもしれない。最後はむりやり彼の手に押し込んだ。よろよろしながら、ホテルに向かったが、どういう風に部屋までたどり着いたかさっぱり覚えてはいない。
 翌朝、なんだかいやな予感がした。財布を開いてみるが、1万円札は無くなっていない。2枚あったはずだが、ちゃんと2枚残っている。じゃあ、渡した1万円札は何だったのだろうか? 「いやな予感」というのは、紙幣とは微妙に違う紙の感触が指先に残っていたのだ。財布にはいろんな領収書が入っている。きっとその内の1枚を渡してしまったに違いない。なんてこった。
 今思い出すたびに笑いがこみ上げてくるが、ごっちゃんにはあまりの格好悪さに、電話1本できないでいる。


2006.11.17 弁護士からの手紙

 弁護士から書類が送られてきた。事務所の封筒がいかにもいかめしい。最初、そんな封筒を見たときは、ギョッとしたものである。本の内容が気に入らず、訴えるとでもいうのか、お金を払えとでもいうのか。封を切るのに気合が入った。
 しかし、このごろはだいぶ慣れっこになった。この種の書類は4通目、どうせまた書店の倒産の通知だろう、と封を切る前から想像がつく。案の定、長崎のO書店が倒産。負債の金額を確定したいという連絡である。小社の取りっぱぐれがいくらあるか、返信せよというのだ。ご丁寧にも、「経営者にはこれといった資産はなく、自己破産の手続きに入るので、負債の取立ては不可能である」と追記してある。
 このO書店は人口14万人の諫早で、アーケードのど真ん中に位置する一番の老舗書店だった。ご多分に漏れず、郊外にショッピングセンターが出来るとアーケード街からは人が消え、次第に払いも悪くなった。何回請求してもなしの礫。このところ、毎年4月に開かれる諫早干潟の集会に行ったついでに店に出向き、やっと集金させてもらっていた。今年は腰の具合が悪かったせいもあり集会は欠席。集金もパス。おかげで15万ほどパーになった。やれやれ、である。
 いま、街から本屋がどんどん消えている。全国で3万店あった本屋さんが、ここ10年で2万店になった。毎年1千店廃業しているのだ。鹿児島でも、小社が開業して12年、50店ほどが消えただろうか。
 人の流れが変わり、大型店やロードサイド型書店が進出すると、家業型の街の書店はひとたまりもなく潰れてしまう。取りっぱぐれは痛いが、それ以上に、書店の親父やお母さんの顔が思い浮かばれてしようがない。小社の田舎臭い本は、街の本屋にこそよく似合うのだけど。
 1滴も降らない日が50日は続いただろうか、やっと雨が降った。その雨でジャガイモは甦った。鹿児島のことわざに「かいもとじゃがたは、へ(灰)で作れ」がある。サツマイモとジャガイモには灰がいい肥料になるという教えである。来週は刈り取った草を燃やして灰を作ろう。チンゲン菜や小松菜も急に元気になった。草刈機で草を払っただけの畑からは、去年のこぼれ種からいっせいに大根が芽吹いている。見ているだけでワクワクしてくる。
 月末には、『奄美の絶滅危惧植物』が出来る。稀少な植物たちを初めて紹介する本だ。世界で数株しか発見されていないアマミアワゴケなど、宝石のような花がお目見えする。乞う御期待。

2006.10.19 雨が降らない

 秋冬物は、彼岸までに植え付けを済ますように。これは亡くなった父の教えだ。でもその言葉はなかなか守れない。今年の秋ジャガ6キロの植え付けも、1週間遅れてしまった。
 春ジャガ好調の余勢をかって、秋ジャガで完勝、高笑いが我が南方農園に響き渡るはずだった。だが、どうも怪しい。植え付けが遅れたからではない。10月19日、今日のこの日になってもさっぱり雨が降らないのだ。昨日畑を見に行ったのだが、ちょぼちょぼと、種芋3個おきくらいに小さな芽が土をわずかに持ち上げているばかり。
 彼岸前に2キロ植えておいたのは、すぐに芽を出し、今では立派な茎が頼もしげに突っ立っている。こいつは大丈夫なのだが、あとから植えた奴はどうもダメだ。
 これほど雨が待ち遠しいことはない。隣の畑にオバちゃんが見回りにやってきた。オバちゃんの畑もおんなじで、芽を出さないので掘ってみたらジャガイモの種芋はすっかり腐っていたらしい。晴れ続きで地温が高くなりすぎたせいか。ヤレヤレである。
 実は昨日は、たまねぎの苗の植え付けが目的だった。100本で600円。苗を仕入れて植えつけて、あとは丸々太ったたまねぎが実るのを待つばかり。収穫は来年の春、5月だから気の長い話だけれど、ちょこちょこっと草取りすればたんまりたまねぎが手に入るというすんぽうだ。だがこれも、植えながら絶望的な気になっていった。
鍬で耕して、堆肥を入れる溝を掘っていくのだが、もうもうと土ぼこりが舞い上がる。まるでテレビでよく目にする黄河流域の乾燥地帯の畑のようだ。こんなに乾燥した畑は、長年やってきてはじめてだ。植え付けのときだけはバケツに水を汲んで一輪車で運んでくるのだが、普段はそうそう水は掛けられない。雨だけが頼りである。どうなることやら……
 1019日、倉庫の物件見学。建坪120坪で1100万円。湿気、立地ともに問題はない。借金を重ねて買ってしまうか、悩ましいところ。
 出版社の90%が東京に集中し、出版物の95%が東京発。あらゆる情報と同じように本も東京から垂れ流されてくるのだが、印刷コストは極端に言うと鹿児島の半分で済んでいる。なにしろ印刷代も製本代も、東京は大量に作り競争も激しいからコストは下がる一方というわけだ。
 コスト差に気がついて5年余。クリアする方法は自社倉庫の購入と分かっていたのだが踏ん切りがつかずにいた。中国ならもっと印刷コストは下がる。以前目にしたオーストラリアの本は「プリンティド イン ホンコン」だった。とっくの昔から国際化は進んでいたのだが、反グローバリズムを常々口にしながら中国で印刷なんて、ちょっと節操がなさ過ぎるか。

2006.9.20 台風が来た

9月17日、台風が来た。去年の9月9日に引っ越してきたから、丸一年と少しが過ぎた小社にとっての最大のピンチである。建坪70坪と大きいのだが、なにしろ築30年の古屋なのである。 
 幸い西にそれ、鹿児島が直撃を食らうことはなかったが、それでも暴風圏に入った数時間は強い風が唸りをあげていた。
 翌日18日は敬老の日。朝から様子を見に会社に出向いた。
電気のスイッチを入れる。点かない。漏電である。ヤレヤレと思いながら、雨戸で締め切った真っ暗な室内を懐中電灯を頼りにチェック。梅雨時にいつもぽたぽた漏れていたところも大丈夫。雨漏りの被害はない。今度の台風は雨が少なかったから救われた。
 外をぐるりとひと回り。案の定、瓦が30枚ほどひっくり返って、杉の平木があらわになっている。割れた瓦もある。なにしろ崖際の丘の上だ。さえぎるものもなく、風は真っぽし当たってしまう。屋根に上ってはげた瓦を置きなおしてみるが、しょせん素人。ガタガタである。手に負えないとあきらめて瓦屋さんに頼むことにした。でも応急措置が必要だ。なれない屋根の上をふらふらしながら青シートをかぶせ、土嚢を置いた。こう書くとあっという間の出来事のようだが、たっぷり半日は費やした。
 19日は仕事の日なのだが、電気屋さんに漏電箇所のチェックをしてもらい、屋根修理の手配に追われたりで仕事にならない。おまけに少し前に発覚した漏水の修理に水道屋さんも来てくれていた。
 20日、この日も仕事にならない、というか仕事をする気がしない。朝から草刈りである。ウイーンと鳴る草刈機は快調そのもの。以前から気になっていた草ぼうぼうの会社の庭をきれいに刈り上げることができた。
 それにしても台風とは不思議なものだ。子供のころから楽しみで仕方なかった。学校が休みになり、海岸には思わぬプレゼントが打ち上げられていた。非日常の悦びとでもいうものであろうか。今でも、台風で数日は仕事にならず、おまけに少なからぬ出費を余儀なくされるのだが、それも簡単にあきらめがつく。
 そうそう後で知ったのだが、台風の前日、読売新聞の全国版で小社の絵本『うんちねこ とむくん』が紹介され、台風の当日『奄美史料集成』が朝日新聞の全国書評欄に短評、台風の翌日『おかあさんのたまごのはなし』が南日本新聞に紹介されていた。こうした記事は、広告費にお金をかけられない小社にとっては、正直ありがたい。
 これも小社への「台風の贈り物」なのだろうか。

2006.8.15 田舎暮らし

 8月17日、お盆休みもあけて出社すると、細々とした仕事が溜まっている。注文の本の発送やら、貰った手紙の返事など一つひとつは大したことはないのだが、まとまるとけっこう時間をとられる。ヤレヤレと思っているところへ、続けざまに何回も電話が入った。
 対応していたスタッフに聞くと、電話の主は、大阪からやってきた団塊の世代という奴である。盆休みを利用して鹿児島を回っていて、来年4月の定年後にのんびり過ごせそうな田舎を探しているらしい。小社が『田舎暮らし大募集』という本を出しているのを聞きつけ、本を買うついでに話を聞きたいというのである。当方が訪問を受けるかどうかも確認せぬまま、道順を聞いている。交差点の度に電話をかけるものだから、五回も六回もスタッフは電話に振り回されている。我侭なことこの上ない。
 小社は出版社であって田舎暮らしの相談所ではない。そんなことはお構い無しに、団塊君は押しかけてきた。過疎地の田舎者は相談に乗るのが当然、なんでも利用してやろうというような都会人の態度が鼻につく。まともに相手をした者がいたのだろうかと思いながら、「いい話がありましたか?」と水を向けると、飛び込みで訪問した役場はどこも盆休みで、担当者に会うことすら出来なかったらしい。
 田舎回りをしている彼が高飛車なのにも理由があった。
 2007年の団塊世代の大量退職が話題になっているが、過疎に悩む村では、その誘致活動も始まっているという。体験ツアーの誘いや格安での土地・家の提供。彼の元にもその類のダイレクトメールがぽつぽつ届いている。そんなこんなで、甘やかされているのである。
 分単位で動き回り、多少の強引さがなければ生きていけない現役バリバリの都会のビジネスマンである。そんな彼がたとえ田舎に住み始めても、十年一日のごとく何も変わらずぼんやり間延びした田舎にいたたまれず、ほうほうの体で逃げ出すのにそんなに時間はかかるまい。
 小社の『田舎暮らし大募集』は、都会の価値を捨てて、新たな価値を田舎に見出して欲しいと願ったものである。都会の価値をそのまま田舎に持ち込むことなど期待してはいない。
 数を頼りに散々国中を引っ掻き回してきた連中が、今度は田舎にどっと押し寄せ好き放題引っ掻き回して、やがて飽きて都会に帰っていく。そんな構図が目に見えるようだ。

2006.7.15 ジャガイモ大豊作

 高校を卒業して30年たった。記念同窓会をしようと最近よく同窓生と顔を合わすのだが、たいてい異様に腹が出ている。同じ同窓生の医者が(彼もたいそうな肥満なのだが)、脳梗塞や心筋梗塞、糖尿病の悲惨さを持ち出して脅すものだから、スポーツジム通いが続出するはめになった。
 国内外の農民が汗水たらして作ったものを散々食べ散らかしておいて、食べ過ぎた分の余ったエネルギーを、動かない自転車をこいだいりして無駄に捨てるというわけだ。周りの景色も見ずに黙々と早足で散歩をする人も最近よく見かける。「もったいない運動」がマスコミにも取り上げられたりするが、スポーツジムや散歩ほどもったいないものはない。
 同窓生の間でスポーツジムが話題に上がる度に、私は鼻でせせら笑うことになる。「俺なんか、タダで汗を流しているぞ。おまけにジャガイモを山ほど手に入れて」。
 7月16日、晴天。春に植えつけたジャガイモの収穫をした。雪国の農家が、冬場に雪を掻き分けてキャベツや白菜を収穫しているのをテレビで見たことがあるが、夏場の南方農園では草を掻き分けなければならない。
 3月下旬に植えつけた種芋は、順調に成長し立派な茎が伸びていた。収穫期の6月にもなれば徐々に勢いをなくし、同時に害虫のニジュウヤホシテントウの最盛期になる。いつの間にかすっかり葉っぱを食われ、終いにはツユクサやイヌタデに覆われてジャガイモの茎は消えてしまっていた。しかし、あれほど立派な茎を見せていたのだから、地中にはイモがごろごろ転がっているに違いない。種芋は4キロ。1つのイモを4つに切って植えたから、一株に1個稔るだけでも16キロになる。2個なら32キロ……。期待は膨らむ。
 イモを掘る前に、小一時間、やぶ蚊の猛攻を受けながらまず草とり。さあ、とクワを入れる。あるわ、あるわ。ごろごろ転がっている。1株4個、60キロは収穫できただろうか。ワッハッハッハー。
 4キロが60キロになる。15倍だ。このことを母に話すと、とうに死んでしまったじいさんは「百姓は百倍にする」と言っていたという。米は一株にどんなに少なくても百粒は出来るだろう。からいもは種芋から無限といっていいほど蔓が出て苗になる。大根でもチンゲン菜でも、一株から百粒とはいわず種が取れる。食って、汗を流して、また食う。人間は死ぬまで「永久機関」たりうることを実感した。


2006.1.10〜2006.6.15


2006.6.15 消えたクロマグロ

 仕事柄、鹿児島で手に入る新聞は各紙ほとんど目を通す。本のネタがソコココに転がっているのである。
 陰惨な事件の多い社会面はざっとナナメに読むだけなのだが、久々に愉快な記事に出会い、ひとしきり1人で盛り上がった。さかな泥棒の話である。
 奄美で発行されている南海日日新聞に載っていた。題して「クロマグロが消えた!?」。
 奄美大島と加計呂麻島の間の大島海峡では、高級魚クロマグロが養殖されている。そのマグロの出荷作業中に、なんと5センチの釣り針を引っ掛けたままの奴が発見されたのだ。以前2センチの釣り針を引っ掛けた奴が見つかったが放っておかれた。だが、5センチともなれば確信犯である。数を当たってみると50匹足りない。1万匹飼っているから50匹は誤差の範囲かとも思うが、業者にしてみれば捨て置くことはできなかった。生け簀から逃げ出す奴もいるし、共食いで仲間に食われた奴もいるだろう。かくして何匹盗まれたか不明のまま被害届けを出すことになった。
 ここまでが記事の概略であるが、想像は膨らむ。
 生け簀のクロマグロは体長1.5メートル、重さは50キロほどある。うまく餌に食いついたとしても引きは並の強さではない。数百キロの力がかかる。村一番の屈強な男でも釣り上げられるかどうか。
 しかも、昼間は無理、夜でも月夜は見つかってしまう。新月の闇夜しかない。それこそ真っ暗な中で、巨大なクロマグロとの格闘。うまくいけば1匹数十万円。気を抜けば海に引き込まれてしまう。命を懸けたさかな泥棒といっても大げさではない。
 うまく釣り上げても今度は売り先が問題となる。1匹数十万円と書いたが、正規のルートに出荷した場合の話である。市場に出したらすぐにばれる。となると出荷すること叶わず、こっそり仲間たちと開いた宴会の肴にするしかない。宴会も大人数を集めるわけにいかないから数人。50キロのマグロを食い尽くすのに毎日食べても1カ月はかかりそうである。そのうちマグロにも飽きて、半分は捨てて……。やはり割の合わない泥棒である。
 ここまで考えてハタと気が付いた。金のためという前提をはずせばどうだろう。そこに山があるから登るように、食べられるマグロがいるから釣る。
 以前徳之島で聞いた話がある。他人の畑の野菜を当たり前のように採っていく婆さんがいたので注意したら、「人の食べるものだろう」と逆に怒られたという。野菜を人が食べる、それは当たり前のことで、かつ婆さんにしてみれば野菜は自然が育てるものなのである。所有、という概念は泥棒を生むが、無所有に生きる人々の中には泥棒は存在しないし、罪の意識もない。
 生け簀から無断で釣り上げた魚を、堂々と村中で分け合って食べる。そんな島があってもいいのだ。

2006.5.23 ホトトギス

 事務所はシラス台地上にある。シラス崖の下には七窪の水源地があり、そこから溢れた湧き水が谷沿いに広がる田んぼにそそぎ込んでいる。
 田んぼの間の小道が私の通勤の道なのだが、いつも道草をするので、なかなか会社にたどりつけない。5月に入るとイシガケチョウが飛び始めた。つい食草のイヌビワに幼虫とか蛹がいるはずだと探してしまう。2日前に発見した1センチくらいの幼虫が、今日見たら1.5センチくらいになっていた。あっという間に大きくなるこの成長の早さには驚かされる。途中のタブの木は、夏になればクワガタムシが集合する。まだ来てはいないかと毎朝木の周りをぐるりと見渡すのが日課だ。ここ数日、2匹のクロヒカゲが樹液を吸いに姿を見せている。クワガタとの再会の日も近い。

 最近の雨続きは、本が湿気を含んでヘロヘロになってしまうので気が気でないが、田植えには雨は欠かせない。雨にぬれた田んぼを見て落ち着くのは、遺伝子のなせる業か。
 つい1週間ほど前には、今年初めてのホトトギスの鳴き声を聞いた。
 「田植えはもう済んだか」「田植えはもう済んだか」
 そう鳴いている。
 何かの本にホトトギスは「テッペンカケタカ」「トッキョキョカキョク」と鳴くと書いてあり、私もずっとそう聞きなしていたが、去年、日吉に住む母とドライブ中に鳴き声を聞いたとき、母は「田植えはもう済んだか、と真似るものだった」と語った。たんに音の響きをなぞっただけより、毎年田植えの季節に渡ってくるこの鳥の習性を捉え、暮らしの一大事である田植えと結びつけた鹿児島の人々の方が、よっぽど上等に思えてくる。
 「まっちょんちょげさ」と鳴くのは志布志のホトトギスだ。昔「まっちょん」という名の姉と、「ちょげさ」という名の弟が二人で暮らしていたという。姉は粗末な身なりをして、弟においしいものを食べさせていた。疑い深い弟は「自分の食べるものがこれほどうまいのだから、姉はもっといいものを食べているに違いない」と思い、姉を殺して腹の中を見てみた。ところが、唐芋の皮のようなものだけ。弟は後悔して泣いて泣いて山に入りホトトギスになった。
 「まっちょんちょげさ、まっちょんちょげさ、まっちょんちょげさ」
 そう千口鳴いて、やっと虫を一匹捕まえて食べるのだという。
この「まっちょんちょげさ」の話は、今年1月に刊行した『鹿児島ふるさとの昔話』(下野敏見著、1,890円)で仕入れたものだ。
                    
 2006.4.26 春は野草

 出版社にとって何よりうれしいのは注文の電話。痛めた腰を気にしながらでも重い本を運ぶのは苦にならないし、荷造りの手も不思議と軽やかになる。この季節、何を隠そう、山菜ガイド『野草を食べる』が絶好調である。
 昨秋、あふれる在庫に追われるように郊外の古屋に引っ越したのだが、400坪もある広い敷地にはフキの大群落がある。春先には、仕事を放り出してフキノトウの収穫に精を出した。
 今はツワブキが、いい具合に毛むくじゃらの若葉を伸ばしている。よく見ると、庭のあちこちにタンポポ、ヨモギにギシギシ、カラスノエンドウや藪ガラシなどの食べごろの若芽が勢いよく背伸びしている。
 田舎育ちの遊びといえば、海や野山の食べ物探しに決まっていた。そんな私にとって、いまでもタダで食べ物が手に入るほどの喜びはない。自然に笑いがこぼれてくる。まさに『野草を食べる』は、私にとってのバイブルなのである。
 自分の読みたい本を出すのが出版の基本だという。読みたい原稿を、自分なら手にとるだろうというしつらえにして本を作り上げるわけだ。だが、それがいつも売れてくれるとは限らない。
 実は、このところ連敗続きである。明治初期、全国でもいち早く憲法草案を発表した民権活動家の山下彌平や、山川均が墓碑銘を書いた明治後期の社会主義運動家・濱田仁左衛門、戦前の無産運動家・冨吉栄二など、鹿児島で活躍した運動家がキラ星のごとく登場する『鹿児島近代社会運動史』。個人的には、なにをおいても座右におきたい基本文書なのだが、書店での反応はなぜかいまいちである。
 世界の核開発の現状をリポートした『核拡散と原発』、与論島の移民の歴史まとめた『与論島移住史』、いずれもすぐれものだが動きは予想を大きく下回る。長い期間をかけてゆっくり売っていこうと気持ちを切り替えたのだが、人件費どころか、印刷費の回収もおぼつかない。
 だが、捨てる神あれば拾う神あり。『野草を食べる』は、私の消えうせてしまいそうな自信をよみがえらせてくれた。
 この本は、著者が三年かけて田舎の年寄りに昔ながらの食べ方をたずねて回り、それをまとめたすぐれもの。野山は食べ物で満ちていることがよく分かる。実際に著者自ら料理をしているから、解説も具体的だ。
 春先のあくの多い野草は、弱った免疫力をグーンとアップさせるという。ついでに、弱りがちな小社の経営にも、大いに活を入れてほしいものだ。

 2006.3.22 出張続き

 このところ出張続きだ。3月1011日は徳之島、1213日は奄美大島に行った。
 徳之島は『徳之島写真集 島史(しまぶみ)』の営業。本はできたのだが、書店は島に4店しかない。手薄な地域の店に、それが八百屋さんであろうがコンビニであろうがかまわないのだが、本を扱ってくれるように交渉すること、それと空港と港に置いてくれる店を確保することが目的だった。
 ごたいそうに書いたが、人口3万人、周囲100キロの広い島でも車で回れば何のことはない。仕事は数時間で終わった。後は島の友人と釣りである。秘密の釣り場に案内され、なんとキロ級のイスズミ4匹をゲット。早速1匹を刺身とあら汁に料理。釣りたてだから鮮度抜群、うまいことこの上ない。これだから釣りはやめられない。もう1匹は単身赴任中の別な島の友人にプレゼント、残りの2匹は奄美大島で世話になる友人へのお土産とあいなった。
 奄美大島では、釣りの話に花が咲きすっかり盛り上がってしまった。すでに船の中から飲んでいたから出来上がるのは早い。翌日のシンポジウムは、遅刻はするは居眠りはするはで、いったい何をしに行ったやら……
 翌3月14日はいったん鹿児島へ。
 3月151617は佐賀出張、2泊3日のスケジュールだ。なれない車を運転して、おまけに寝たのが県庁横のテント。すっかりドロドロになって帰ってきた。佐賀の目的は「テントに寝ること」であった。
 佐賀の玄海原発では、あろうことかウラン用の原子炉でプルトニウムを混ぜて燃やそうというプルサーマル計画が国と九電によって進められている。灯油用のストーブにガソリンを入れて燃やすことに例えられる超危険なしろものだ。事故時の被害も、通常の原発被害の4倍の規模になる。プルトニウム用の高速増殖炉「もんじゅ」が運転を開始したとたん大事故を起こしたものだから、プルニウムが余ってしょうがない。核燃料サイクルの破綻を隠すためにこのプルサーマルがあるのだが、やられるほうはたまったものではない。
 それをいよいよ佐賀県知事が受け入れようとしている。311日から佐賀県議会最終日の23日までをめどに、地元の反原発グループが24時間座り込みの抗議行動を始めた。九州各県のグループにも支援の呼びかけがあった。渡世の仁義というやつである。仕事をサボってでも駆けつけなければならない。

 田舎出版社は本を作るだけではない。出張中に釣りをしたり、座り込みをしたり、いろいろと忙しいのである。

 2006.2.15 割れなかったクス玉

 寒い日が続く。南方農園も不作が続いている。
 例年1月に蒔いた菜っ葉の種はそのまま成長し、菜の花の咲く3月4月までは収穫を楽しめるものだが、今年はどうもうまくいかない。せっかく芽吹いた双葉が霜にやられたのだろうか、黄色く縮れ、跡形もなく消えた。
 もっとも、1月に小松菜や、チンゲン菜、白菜の種を蒔くのは邪道である。分かっていながら蒔くのは「収穫したら種を蒔け」という亡くなった父の教えがあるから。秋ジャガが草の中に消えてしまっていたのですっかりあきらめていたのだが、ためしに掘ってみたらなんとなんと、小さいながらもコロコロと顔を出した。掘ったあとは「父の教え」というわけで、菜っ葉の種を蒔いたのである。
 そういえば11月に蒔いたシマ大根は、タンポポのロゼッタのように葉っぱを地面に這いつくばらせたまま、一向に成長する気配を見せない。
 ヘボな、話ばかり続いたが、少しはちゃんとした野菜もできている。早い時期に蒔いたチンゲン菜は、下半身がでっぷり太った立派な出来栄えだった。キャベツも大玉が行儀よく並んだ。春の備えもぬかりはない。この前、農協でジャガイモの種芋(出島)を4キロ仕入れた。3月になればドーンと植えよう。ホクホクのジャガイモ、想像するだけでつばきが出てくる。どうだ。
 
 ジャガイモといえば、早掘りの赤土馬鈴薯の産地は徳之島。高校野球では徳之島高校が県大会で準優勝し九州大会に出場。一回戦で敗れたものの、春のセンバツでは21世紀枠の期待が残った。
 出場校発表の日、1月31日午後3:00。校長以下監督、部員らがマスコミの見守る中、固唾を飲んで電話を待った。お決まりの光景。しかし、ベルは鳴らなかった。準備されていた保育園の園児たち手製のクス玉も割られることはなかったという。私は徳之島の伊仙小学校を卒業した。ひそかに出場を期待していたのだが、しょうがない。ただ、園児たちのクス玉の行方がやけに気になった。


 徳之島高校は打撃のチームだった。ときとして爆発する打線は、島の伝統行事闘牛に引っ掛けて闘牛打線と呼ばれていた。闘牛で勝てば、一族一党がワイド、ワイドと踊りまわる。負けても、勝ったほどではないにしても踊りながら退場するものだった。島の子らしく陽気にクス玉を割ればよかった。それができないくらい大和化したのかと気にかかる。
 ちなみに、50年前から島を撮り続けた加川徹夫による『徳之島写真集 島史』を2月末に刊行する。島びとの桁違いの生命力があふれるすぐれものだ。

 2006.1.23 違反者講習

 みっともない話だが、チョビチョビ貯めこんだ交通違反の点数が6点になっていたようだ。先日、違反者講習の呼び出し状が舞い込んだ。
 朝から夕方まで、丸一日がかり。午前中は座学で、午後からは社会参加活動だという。笑ってしまったのは、この社会参加ってやつである。さて何をするかというと、交通安全標語の書かれたプラカードを持って、交差点に立つのだという。あまりのあほらしさに笑うほかない。
 かつて中国・文化大革命のころ、「私は堕落している」というゼッケンをぶら下げ、紅衛兵に小突かれながら行進していた人々を思い出した。

 交通安全の標語が、なにかの役に立つとは思えない。しかし、いいさらし者である。交通違反の抑止効果は確かにあがるだろうとも思う。だからといって、何をしてもいいということにはならないだろう。人間性を傷つけることで効果を上げようというこの野蛮な懲罰は、最近の違反の厳罰化ともあいまって、秩序優先の薄気味悪い時代の到来を予感させる。
 幸い、当日は土砂降りで、社会参加活動は屋内の救命講習(人工呼吸と心臓マッサージ)に切り替わった。違反者の中に、現役バリバリの救急隊員がいて、自ら手を挙げ率先して見本を見せてくれたのがおかしかったが、社会参加というお題目を掲げるなら、プラカードを持つよりよっぽど役に立つ講習だった。

 さて、今『鹿児島ふるさとの昔話』(下野敏見著)を編集中である。2月末刊。懐かしい鹿児島弁が心地よい。祖父母の息遣いが甦ってくる。はやらせたい鹿児島弁
1.よんごひんご 2.ごろいと 3.こんわろ 4.いっそんこて 5.はっちた

 2005.1.10 新年を迎えて

 拝啓 皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
 2005年、南方新社も何とか1年を終わることができました。
 かつて、「市場がどんなに縮小しようが、田舎の本の占める割合は売り場の半分にも満たないのだから、まだまだ拡大の余地はある」と強がっていたものです。そしてこの間、制作力の向上に注力し、年間30点はコンスタントに生み出せるようになってきました。20059月には、向こう10年間、在庫の心配をしないですむようにと、倉庫つき事務所への移転を敢行しました。
 しかしながら、世間の状況は、確実に変化しつつあります。
 春先に西日本新聞のコラムにこう書きました。「停留所でバスを待つ高校生は文庫本を片手にしていたものだが、今では暇さえあれば携帯をチョコチョコいじくっている。その下の世代も、大きく様変わりすることはあるまい。こうしてみれば、20年後、30年後のおおよその想像ができる。出版という業界そのものが、消えているかもしれないのだ。柄にもなく評論家のようなことを述べてみたが、20年、30年後のことなんて本当はどうでもいいことである。もともと若い世代に期待はないし、この私に仕事ができるのも、せいぜい10年余りなのだから。現在48歳。本を読まない若者を小ばかにしながら、後は高みの見物だ」。まだ若者にも市場にも楽観していたからこそ、こんなことを書けたのかも知れません。
 しかしこの1年、市場の萎縮は、大型書店の登場という流通上の変化をともなって、急速に小社にもその現実を見せてきました。というのは、数年前なら確実に部数の読めていた書籍が、トンと動かなくなっているのです。
 慌てず、騒がず。残るものは何か、必要な布石は何かをしっかり見定めて、一つ一つ腰をすえてかかっていこうと思います。
 
 今年もよろしくお願い申し上げます。


2005.7.15〜2005.12.27

2005.12.27 

 2005.12.27 年末回顧

 塞翁が馬 今年もいろいろあった。特に健康運に陰りがあったようだ。でも、物は考えようともいえる。
 6月の交通事故はとっても痛かったが、入院中骨折した鎖骨を動かさないようにと、腹筋を使って寝起きしていたら、なんと、なんと、持病の腰痛がきれいに消えてしまった。おまけに、ここ数年厚くなる一方だった腹の脂肪も激減。すっきりなった。
 12月には風邪をこじらせて気管支炎に。発作のときの余りの苦しさにタバコも吸えないでいたら、アラ不思議。30年間、ずっと止められなかったタバコがいつの間にかいらなくなっていた。
 そうそう、8月には死亡保険に入ろうとしたところ、尿検査で糖、血尿、蛋白と3拍子揃ってチェック。あっさり断られてしまった。考えてみれば、検査はタダだったわけだし、不摂生を警告してくれて感謝するしかない。おまけに、死ななければもらえない保険料も払わずに済んでいる。

 10月には、スウェーデンから本の注文があった。「お金は要りません。遠いところからご注文いただけて光栄です。ご笑納ください」と、お手紙をつけて本を送った。国内にタダで送ったりすれば商売にならないが、外国からの注文にはタダで送る。そんなに注文があるわけでもないし、第一、スウェーデンのお金とかドルとか、当方にとってみれば木の葉みたいなものである。本は売るほど沢山あるから大したことはないのだが、先方には随分喜んでいただいたようだ。スウェーデンのとってもきれいな風景の写真がメールで送られてきたし、年末には、大麦で作ったクリスマス用のリースと、おいしいアメを送っていただいた。
 喜んでもらえれば、こちらの気持ちも、ほっこり暖かくなる。

 〈南方新社2005年の10大ニュース〉

34日 3年がかりの大著『奄美学』完成。小社最高頁数631頁を樹立。g400円が基本価格。重量1100g余りで4,800円だ。ヨシ
310日 屋久島に上陸する伝説の大海亀物語『ジェーン』(KYT鹿児島読売テレビ編)刊行。KYTCMで協力。連日連夜、南方新社の文字が画面で踊る。オオッ
61日 向原が深夜バイクで帰宅中に車と衝突。右鎖骨骨折で入院、2週間。イテテテテー
616日 沖縄に社員旅行。青い海と青い空は何処。連日土砂降りの雨、雨。それでも元気に、ボーダーインクの面々と遊ぶ。ワイワイ。
720日 『昆虫の図鑑 採集と標本の作り方』刊行。滅びゆく昆虫少年再生戦略の秘密兵器、3年越しで完成。フフフフ
96日 台風14号来襲。引っ越しをひかえた新事務所の屋根瓦が吹っ飛び水浸しに。ムムッ
99日 史上最大の引っ越し敢行。運んだ荷物はダンボール1200箱、しめて30t。これを業者に頼まず加勢人と自分たちでやり切ったのだ。スッゴーイ
1015日 『地域と出版』(向原祥隆編著)が地方出版文化功労賞奨励賞を受賞。鳥取まで授賞式に出向く。ペコリ
1120日 植樹祭を開催。新事務所の庭にみかんの苗9本を植える。秋の木市で11,000円也。庭は370坪もあるのだから植え放題。来春の木市では桃、梅、柿、栗・・・何買おう。ワクワク
1127日 生命のまつり実行委員長。朝から飲んだが泥酔することもなく重責を無事はたす。ホーッ
127日 テキスト『かごしま検定』好調に船出。ご当地検定の鹿児島版。商工会議所が威信を賭けて実施する。小社は「ヒーヒー」言いながらテキスト作り。出来てヨカッタッ

 2005.12.12 壊れる田舎

 秋も深まってきた。田舎道を車で走っていると、道端の黄色いツワブキの花と白い野菊の花が目に飛び込んでくる。
 白い菊の花は、たいていサツマシロギクである。なんとも可憐そうな名前ではないか。この花、実は10年ほど前にはイナカギクという名で呼ばれていた。ひどい変わりようだが理由がある。専門家が詳細に研究したところ、南九州のイナカギクは別種であることが判明したのである。
 同じ白い野菊の花でも、海岸近くに生えるのはサツマノギク。田舎道のシロギクよりひと回り大ぶりで、姿は気品があってりりしい。小社の植物図鑑『野の花めぐり全4巻』の著者・大工園認さんは、野草で県花の選定があったら本種が一押しだ、と語っていた。こちらも南九州でしかお目にかかれない。
 東京で作られる(全国に流通している)植物図鑑は、関東圏を主対象にしているから、もちろん両種とも載っていない。鹿児島での普通種が載らず、逆に鹿児島に分布していないものが多く載ることになる。これでは使えない。小社が鹿児島の図鑑を作る理由がここにある。これまで植物、昆虫、貝、川の生き物などの図鑑を作ってきた。
 
 さて、先日田舎の墓参りに行ったとき、あまりのショックに力が抜けた。墓地管理の一環なのかもしれないが、タブの木の根際にあったサツマノギクの群落が、無残に刈り取られていたのである。あたりには、いっぱい蕾を付けたままの茎がしおれて散らばっていた。去年私はそのサツマノギクの種子を、自分の墓の周りの土手に蒔いた。順調に芽を出し、花をとても楽しみにしていた。いくつかの小さな群落もでき始めていたのだが、彼岸過ぎに下手の墓の持ち主があたり一面に除草剤を撒き散らし、全部枯らしてしまった。この除草剤騒動には後日談があった。草のすべてが枯れ、地肌があらわになった土手である。雨にひとたまりもなく、やがて土手は大きく崩れた。
 土手を裸にするなんて、田舎に住む者ならその危うさを知らないはずはないだろうに。除草剤が想像以上に強力すぎたのだろうか。そういえば、サツマノギクの群落のあったタブの木は、二年ほど前に根から1メートル残して伐られてしまった。ご丁寧にも、伐り株にはガソリンをかけて火がつけられていた。墓地の木は、暑い夏に涼しげな木陰を作ってくれた。それだけではない。神社の杜同様、神聖なものであったはずだ。
 墓地の木を伐り、除草剤で土手を裸にし、蕾のいっぱい付いた野菊を刈り払ってしまう。田舎も壊れ始めているのか。

 20051014日 鳥取行き

 1014日、鳥取へ向けて出発。なんと拙著『地域と出版』が、地方出版文化功労賞奨励賞を受賞。その授賞式が鳥取であったのだ。
 滅多に県外に出る機会はない。せっかくだからと岡山で途中下車。岡山の同業の吉備人出版をたずねた。設立もほぼ同時期、出版点数も似たようなもの、売上規模もどっこいどっこいである。話をするだけでいろいろ勉強にもなるし、刺激にもなる。
 土産の焼酎2本をぶら下げて、事務所訪問。焼酎を渡す。だが、その2本の焼酎瓶、鹿児島からずっと一緒だったこともあり気になって仕方がない。実はその銘柄の焼酎を、私はまだ飲んだことがなかったのだ。ちょっと味見をしましょうかと、早速封を切り味見。うまい、もう一杯。本作りの話はそっちのけで、すっかり腰がすわってしまった。結局、飲みにいった店にも持参し、土産はその日のうちに消えてしまった。なんてこった。山川社長、こんなもんです。焼酎にはめっぽう弱いのです。

 1015日、鳥取県倉吉市で授賞式。賞状と盾を貰って、その後講演会が設定されていた。私の持ち時間は30分。会社を創ってからこれまでの数少ない成功と、あり余る失敗談を適当にしゃべればいいと軽い気持ちで出かけたのが失敗だったか。
 調子に乗って、大山さんのことを口走ってしまった。大山さんは、7年前ほど前に現れた謎の人物である。謎ではない、公安なのである。その話は、以前新聞のコラムにかいた。採録しよう。

 「大山さん」
 
 いろんな人が当社を訪れるが、普段は会えない人も来る。ズバリ公安が来たのだ。
話はこうだ。
 彼はひょっこり、読者です、と訪れた。突然の訪問でも出版社たるもの、読者と聞いておろそかにするわけにはいかない。しかも何冊も買ってくれたという。
溜まった原稿を放り投げて、隣のローソンまでお菓子を買いにいき、お茶を出し、世間話の相手をした。聞けば、私が小学校のころ住んでいた同じ徳之島出身で、おまけに隣の集落だという。彼は大山と名乗った。島にも多い名前だ。
 一気に親近感が増し、話は盛り上がった。小一時間ほど付き合っただろうか。
 一週間ほど後、こんどは大山さんから電話がかかってきた。一緒に焼酎でも飲みませんかと言う。出版社たるもの、読者の誘いを断るわけにはいかない。
 懐かしかろうと島料理を出す飲み屋に連れて行った。ひとしきり飲んで、まだ名刺を貰ってないことに気がついた。彼が差し出したその名刺には、なんと「公安調査庁」と書いてあるではないか。
 はあ、と開いた口がふさがらず、酔いも一気に醒めた。
あらためて眺めてみれば、首も腕も太い。以前、公安はがっしりした体をしていると聞いたことがあるが、なるほど鍛えられている。仕事は土木関係だと言っていたが、何のことはない、仕事をしているはずの昼間は柔道で汗を流すのが日課だった。
 やれ原発反対だの、諫早の干拓止めろだの、しつこく本を出しているから、どんなところか覗きに来たのだという。
 小社は本を出すところで、何も隠すものはない。初めから堂々と名乗ればいいものを、読者です、と来るから話はややこしくなる。
 さらに、これからも話を聞きに事務所に寄りたいとまで言う。あつかましいのにも程がある。わざわざお菓子を買いに行き、作り話に付き合わされたこちらの気持ちにもなってみろ、というものだ。
 翌日、彼の職場に大山さんを訪ねた。外出中だという。これで、大山さんが本物の公安であることが確認できた。ついでに、伝言を頼んだ。「出入り禁止です」と。
 今でもときどき大山さんのことを思い出す。もっとも、出身地もこちらに合わせたウソで、「大山」も偽名だろうけれど。


 このとき初めて「公安」には、警察の警備担当と、法務省の公安調査庁があることを知った。ともあれ、私自身には印象に残る話だったのだが、どうも場所柄がよくなかったようだ。それまで、にこにこ笑いながら聞いていた人たちの表情が、「公安」と口に出したとたん急にこわばってしまった。「公安」にマークされているなんだか怪しげな出版社、そんな印象を与えてしまったようである。
 冷え冷えと、異様に緊張した雰囲気の中で、いまさら途中で止める訳にもいかず、やけくそ気味で話し続けたのだが、やはり話す内容はきちんと準備すべきだったと後悔した。

 10月16日、鳥取から鹿児島までは8時間。汽車に乗り込むのも気合が要る。ホテルを出て、しばらくウロウロとあたりを散策。大き目のスーパーに入ってみた。なんと、鮮魚コーナーには、地元の漁港で獲れた刺身用の魚が所狭しと並んでいる。量もさることながら、生きの良さとその種類の豊富さにはかぶとを脱いだ。鹿児島のスーパーでは、せいぜい5種類もあれば上等である。おそらく20種類はあっただろうか。毎日食べても、飽きることはなかろう。鳥取県人が急に羨ましくなった。

 2005年9月20日 怒涛の引っ越し
 
 9月9日、引っ越し大作戦決行。いま振り返れば甘かった。とにかく甘かったの一言に尽きる。
 倉庫に積まれた在庫の山を切り崩しながら、トラックに積み込んで新しい倉庫に入れていく。その数4万冊。後で勘定したらダンボール箱で830個にもなった。総重量約20トン。これを男手10人ほどでやり切った。当初、予定の男手は5人程度、心優しい手伝い人5人が来てくれなかったら、一体どういうことになっていたか。
 運んだのは在庫ばかりではない。出荷スペースの本250箱。机周りの資料100箱。イス、机、タナ……。2トントラック2台が数え切れないほど往復した。
 夜の7時から宴会の予定だった。もちろん7時に終わるはずもなく、作業は延々続いていた。宴会にだけ参加する予定で訪れた人も、そのまま作業に駆りだされ、とりあえず終了したのは夜の10時。ビールのうまかったこと! そして焼酎も! 深夜3時過ぎまで痛飲。
 噴き出した汗は、何リットルになっただろうか。体重が4キロ減っていた。

 9月17日、南方農園。6月の鎖骨骨折(バイク事故で入院)がたたって、畑は荒れ放題から未だに回復していない。夏場に草刈機で刈っても、すぐに元の草っぱらに戻っていた。でも、これからの季節は草の成長も鈍くなる。
 彼岸までには済ませろ、といわれる秋・冬野菜の植え付けも、順調に進んでいる。秋じゃが、大根、白菜と植え付けは終了。後は何を植えようか。ニンジン、玉ねぎ、ネギ、山東菜、チンゲン菜、キャベツにブロッコリー……。草地を開墾すれば、土地はいくらでもある。1反の畑がやがて甦る。

 9月20日、楽園めぐり。昼食には付近の食堂を利用する。早く終われば、つい事務所の周辺を散策したくなる。先週は、思いがけない楽園を発見した。事務所から200メートル下れば川が流れている。稲荷川という名の川幅3メートルほどの小さな流れだ。川の向こう側には、川に平行して用水路が引いてあった。この用水路沿いの小道がなんとも心地よいのだ。道端には椎や樫の木が生い茂っていて、涼しげな木陰を作っている。ふと見ると、道の上に木の実が落ちている。椎の実だ。しかも、通常の4倍ほどの大ぶりな実である。9月6日の台風14号で落ちたのだろうが、あれから何日もたっているのに潰れてはいない。結構広い道幅だが、車はほとんど通らないのだ。
 この道は、営業マンの格好の休憩所となっている。コカ・コーラ、ガス会社、電気工事会社の車が、道端にぽつん、ぽつんと停まっている。

 2005年9月9日、引っ越すぞ

 12年前、創業当時借りたのは、11坪の事務所だった。何もない部屋にぽつんと一人、えらく広く感じたものだった。
 東京は人間の住むところじゃないとUターンしたはいいが、鹿児島に住むのは高校卒業以来のことである。ほとんど知り合いもいない。その寄る辺のなさも手伝って、なおさら広く感じたのかもしれない。
 中古屋からとりあえず机を4つ買い込んだ。しばらくして、経理、編集と、スタッフも増えていった。といっても机の数だけ4人である。6年目、出版点数が50点ほどになったとき、ついに在庫でパンク。移動のときも、カニのようにヨコ歩きしなければならないほどになっていた。
 2000年8月、現在の事務所に越してきた。40坪の民家。以前八百屋をやっていただけあって、広い土間が在庫スペースにちょうどいい。すっかり馴染んだのだが、点数が160点を超えたいま、パンク寸前である。駐車場を倉庫に改造したが、1年ともたなかった。新刊ができても、置くところがない。かくして、事務所探しを半年前から開始した。
 紆余曲折を経てたどり着いたのは、370坪の土地。市街からかなり離れた山の中である。在庫のために高い土地代を払うのはもったいない。必然的に地価の安い郊外になった。
 ここのいいところは、タダで家がついていることだ。なんとそのタダの家は、70坪もある。一時期当たった建設会社の社長が、金にあかせて作った豪邸である。鉄筋の30坪の倉庫もおまけで付いている。
 一つ心配の種がある。件の建設会社は潰れ、豪邸は競売に。次の持ち主も建設会社の社長だったが、倒産、競売となった。倒産づいているのだ。まあ、しみじみと本を作って売るだけの南方新社だから、大げさな倒産などとは縁はないだろうが、坊さんを呼んでお祓いだけはしておいた。
 引っ越しは、9月9日金曜日。汗を流してビールを飲むぞ。

 2005年8月1日 クワガタ採り。

 やらなければならないのだが、なんとも手のつかない仕事がある。
 1400ページもある超大物だ。ここ3週間ほど、ずっとやらなければと、のどに引っかかった小骨のように気になり続けている。普通の本が200ページ、大物でも300ページを超える程度だから超大物振りがよく分かろうというもの。
 千里の道も一歩から、とにかく前に踏み出さなければ終われないのは分かっているが、手がつかない。
 小さな仕事から片付ける、これは長年の流儀だった。大きな仕事一つに、小さな仕事十あるとしたら、小さなものから片付けたほうが確実に能率が上がる。大きな仕事で手間取っていたら、すべてが糞詰まりを起こしてしまう。小さなものを片付けて、大きな仕事は、時間を作ってエイヤッと終わらせてしまうわけだ。
 ところがあまりに大きすぎると、エイヤッとはいかない。数日籠ってやっと少し進む仕事だ。ほったらかしにしているうちに、仕事の手順も忘れてしまっているから、余計遠ざけてしまう。
 平日は、電話やら訪問客やらで中断される。電話や客が、ただあるだけなら問題はないが、そのたびに仕事が増える。超大物はいつの間にか、ヒマラヤのように立ちはだかっていた。
 先週の土曜日は、朝からヒマラヤに挑む予定だった。寝坊をして出社は12時過ぎ。暑いから缶ビールで体を冷やす。1本の予定が2本になり3本に。いい気持ちになった。よっし、久しぶりにクワガタ採りに行こう。会社のある団地の周りは雑木林。以前からめぼしをつけていたタブノキやクヌギの木がある。何カ所もある。こうして、大判のクワガタ3匹を手に会社に帰るころになると、すっかり仕事をする気はうせていた。
 いったい何をしてるんだか……
 

 2005年7月19日 蔓ものは根が弱い。
 

 週に一度は、鹿児島市から車で40分、実家の畑に行く。

 77歳になる母が一人暮らしをしているので、その生存確認の意味もある。「おーい、生きているかー」が、訪問の挨拶代わり。

 もう一つ重要な仕事もあった。墓参りである。私が特別信心深いわけではない。当地の田舎では、墓に花を欠かしてはならないということになっている。花がしおれていれば、なんと先祖をないがしろにする家だと、村中の非難を浴びる。腰の曲がった母の足では、1キロ離れた墓に行くのも難儀であろう。夏場は、1週間もすれば花は枯れる。いつの間にか、墓参りが重要な私の仕事となった。

 7月18日、海の日。畑に出てため息をつく。交通事故で入院していたせいもあるが、ひと月あまりほったらかしにしていた畑は、見るも無残。

 植え付けは遅れたが、まあまあの成長を見せていたジャガイモはすっかりツユクサに覆われている。痕跡を探すが影も形もない。トマトは健気に実を付けていた。支柱を付ける間もなく大きく伸びたトマトは草の中に倒れ、草を掻き分け赤く熟した実を拾い取ることになった。半分以上が収穫期を過ぎて腐っている。後で母に話すと、「台風が来たら、わが家の勝ちよ」と、励ましてくれた。きちんと支柱にくくりつけているトマトより、草の中に倒れたトマトのほうが、被害が少ないというわけだ。ものは考えようか。

 ナス、ピーマン、スイカは、ほぼ全滅。意外な収穫はニラ、それとキャベツが草の中に玉を付けていた。きっと、蝶蝶も見つけられなかったに違いない。

 気を取り直して、この日は3分の2以上を占めるただの草っ原を草刈機で刈ることにした。草っ原の畑なんて、どうにも体裁が悪い。炎天下、草いきれで何もしないのに汗がにじみ出てくる。骨がくっつきかけている右鎖骨の上にちょうど草刈機のベルトが当たる。作業開始は午後3時10分。調子は上がらず、ものの20分ほどで汗が吹き出し、息が上がる。日陰で休憩しようとすると、今度はやぶ蚊の猛攻。水をがぶ飲みして草刈。また20分ともたない。やぶ蚊を払いながら水を飲む。気分を変えるため、肥料の効かない小さな葉っぱを草の中に揺らしていたサトイモ地帯に移る。サトイモを傷つけないように草を刈る。10分でヘロヘロだ。水を飲んだら、持っていった1リットルのペットボトルが底をついた。終わり。

 作業時間1時間、流した汗1リットルであった。

 実家でお茶を飲んでいるとき、「シルバーに庭先の草取りを頼んだら、キュウリの根元の草まで取ってしまった」と母が嘆いていた。蔓ものは根が弱いので、根元の草取りはタブーなのだという。案の定、5本のうち2本の蔓が枯れてしまった。いい事を聞いた。

 200571日 交通事故から復帰しました。
 

 のっけから、事故の話で失礼。

 私の足はバイクだ。道が込んでいてもなんていうことはない。燃費もリッター25キロくらいだから、車よりは罪悪感が少ない。寒い冬や雨の日は難儀だが、我慢できなくはない。

 学生時代はよくこけていた。1年に1回は天と地が逆転する不思議な感覚を味わったような気がする。それでもなぜか怪我はなかった。最後にこけたのは26歳のとき。22年間何もなかったものだから、このままずっと事故とは無縁だろうという気さえしていた。それは甘かった。

 思い起こせば、6月1日深夜11時過ぎ、やっと仕事も一段落付いて後は帰って風呂に入って焼酎を飲むだけと、うきうきしながらバイクで帰宅途中のことだった。雨上がりの風の心地良いいつもの帰り道、交差点で車の近づくのがライトの灯りで分かった。こちらのライトも見えるはず、こちらはメインの道路、向こうは停止線もある。出てこないだろう、待つだろうと思いきや、何とそのまま車のライトが車線に出てきた。

 何てこった、急ブレーキ。警察の現場検証によれば6メートル前からブレーキ痕とのこと。路面が濡れていてさらに前輪後輪ともロックしたのだろう、すってんころりとスリップ転倒。バイクは車にガツン。私は気が付くと、ヘルメットがガガガガと地面をこすっているのが聞こえていた。

 救急車で病院に運ばれレントゲンの結果、右鎖骨骨折。最初は痛みで寝返りもできない。夜も眠れず、2日間くらいは意気消沈していた。それでも日に日に痛みも取れていった。

 今回のこの事故で、寿命が20年ほど延びたような気がする。調子に乗って走らないということだ。相手の車も、自分のハロゲンヘッドライトが明るすぎて私が交差点に近づいてくるのが分からなかったという。交差点では頭を出さないと左右は見えない。しようがなかったということだろう。私がのろのろと走っていたら避けられた事故だった。首でも折っていたら、家族はいまごろ仏壇に手を合わせていただろう。

 71日、あれからひと月たち、骨もだいぶくっついてきた。仕事もいつものペースに戻ったように思う。入院のおかげで返事が遅れ、出版の話が一つ飛んでしまったが、もともとなかった話だと思えば気にならない。

 それにしても、この世界では人間が制御できないスピードがごく普通になっている。そして交通事故は決してなくなることはない。だとすると、交通事故は不慮の事故などではなく、制御できない機械をもたらした者が仕組んだ災難だということにならないだろうか。
 



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鹿児島市の郊外にある民家を会社にした「自然を愛する」出版社。自然や環境、鹿児島、奄美の本を作っています。

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