2007.7.18〜2007.11.16


2007.11.16 幸せなひと時

 出版の仕事をしていて幸せなひと時の話。
 原発や諫早干拓、市町村合併など、当たり前のように進む企業や行政の事業に対して、ちょいと待てよと、紙爆弾を密造する快感もさるものながら、やがてお目見えするであろう本を手に取った人が、昔のことを思い出したり、考え込んだり、クスッと微笑んだり、そんな心豊かになる原稿に誰よりも早く出会う喜びもまた、この上ないものである。
 大吉千明さん。72歳、串良の床屋さん。若いころ漫画家を目指し上京するも夢果たせず、帰郷した御仁だ。ユーモアあふれる墨絵の漫画と鹿児島弁の使い手である。小社から既に5冊出している。
 いま、鹿児島弁のキーワードのいくつかを、鹿児島弁の例文で説明する原稿を預かっている。いうなれば『英英辞典』ならぬ『薩薩辞典』だ。一足早くいくつか紹介しよう。

それとんの
それとなく。「一年生になった孫が、重びふうで鞄ぬかるっ〔背負い〕学校に行っじ、ガッツイ行っがなっどかいチ俺どんがそれとんの後を付けっみたや、脇目もふらじ校門ぬ、くぐっ行ったど、お前や」。孫の姿がいたいけなくムジかったとか〔可愛かったのか〕、宗雄どんが涙が滲んだ目をしょぼつかせっながい「年しゅとれば涙脆ひんなった」チ言っ、目の縁っそろいと拭ぐわった。

ゴロがつっ言葉
鹿児島では言葉の下にゴロが付くものは、あんまい良かぁごうはん。嘘つっゴロ、盗人ゴロ、いやしゴロ〔食いしんぼう〕、欲ゴロ、良か真似しゴロ、いめゴロ、などがあって、最後にキンゴロがごあんどん、これは男のシンボルでまこて可愛いもんであります。体温保持のため寒みなれば縮みあがり、暖かくなればダラリの帯より長く垂れもす。ハーイ。

 高校教員をしている息子さんから、お便りが添えられていた。
 「父は書き残したことがあると言い、原稿作りに没頭していました。本業を忘れたかのように、背を丸めて……。その後ろ姿からは執念というか、何かに取り憑かれたような感すらしたものです。(略)なにぶん趣味の延長であり、決して上手とは言えない絵と文章ではありますが、読む人の心に、ある種の郷愁と感動を与えると思います。」
 ホッコリ優しい気持ちになれる方言。まさに文化そのもの。絶滅寸前の鹿児島弁を何とか後世に伝えようという気持ちが、また一つ形になる。
 来年春、刊行予定。乞うご期待。

2007.10.23 高額本

 だいたい本の値段は1500円前後。それで2000部売れて何とか食っていけるというのが、田舎出版社の一般的なパターンである。
 値付けについてもう少し細かくいうと、グラム400円。変な話だが、本も国産和牛並みの値段が相場だろうと、これまでの経験から判断している。見栄えもだが、手に持ったときの重量感が、値段の妥当さに結びついているような気がする。
 もちろん、とても2000部は読めないとあらかじめ分かっていれば、定価を高くせざるを得ない。
 今回企画している本は、およそ3倍の重さ。刷り部数も500部。とくれば値段は公式どおり12倍、どーんと18000円である。
 題して『南西諸島史料集』。「十島図譜」(白野夏雲)、「七島問答」(白野夏雲)、「薩南諸島の風俗」(田代安定)、「島嶼見聞録」(赤堀廉蔵他)など、明治期に役人がトカラを調査した報告書類をまとめたものである。
 これらの古い文献は、その地域の歴史や民俗を調べていく際に、必須の基本史料となる。だが、なかなか手にすることはできない。古書店などで運良く見かけたとしても、それぞれ何万円もする。
 編者の松下志朗さんは、現在74歳。長く奄美・トカラの歴史研究に携わってきた学者である。『近世奄美の支配と社会』という奄美を知るためのバイブルともいうべき名著もある。数年前に心臓の病に倒れた。いまは回復されているが、最後の仕事として後進のために史料集を残しておこうと一念発起されたのである。
 この本の大切さは理解してもらえると思うが、出版社はただ本を作ればいいというわけにはいかない。大金をはたいてでも買うという500人を見つけなければならない。このご時世、これがなかなかなのである。下手をすれば、何百万円の赤字となる。
 さらに、冷や冷やものなのは、この勝負が一回だけではないということ。何と全五巻、出し続けなければならない。第一巻がこけたから止めます、というわけにはいかないのだ。
 年中、売れなければ赤字という賭けに出ているのだが、今回は12×5巻の60倍規模の賭けである。賭け事に必勝法なんてない。運を引き寄せ、力を尽くすだけだ。
 ちなみに、全五巻は以下の通り。第一巻「明治期十島村調査報告書」、第二巻「名越左源太関係史料」、第三巻「奄美法令集」、第四巻「奄美役人上国記」、第五巻「奄美諸家文書」
 セット予約受付中。

2007.9.13 トウモロコシ泥

 南方第二農園の開園から二カ月余り。
 10月に小社より刊行予定なのだが、一足先に『自然農・栽培の手引き』(川口由一監修、鏡山悦子著)を教科書代わりに、荒地の開墾から、植え付けまでを行った。これまでほとんど手を掛けずにいたのだが、先の日曜日には枝豆、チンゲンサイなどをたくさん収穫できた。
 南方新社・自然農クラブのメンバーも大満足。ただ、トウモロコシだけは、「ひげがこげ茶色になってちぢれてきたら収穫」という教科書に従うと、あと1週間ほどは我慢した方がよかろうということになった。
 水曜日に畑を覗いてみると、あら不思議!トウモロコシが視界に現れない。近くによって見ると全部倒伏しているではないか。倒れた幹の傍らには、皮を剥かれたトウモロコシが、芯だけ残して放り散らかされている。人間ではあるまい。人間なら実だけ採ればいいのだから。そうだ、タヌキの仕業だ。でも、どうして倒したのだろうか。2本足で立つレッサーパンダが人気になったが、川上町のタヌキも2本足で突っ立って引き倒したのであろう。皮を剥いた形跡はあるのだが、芯が見当たらないものもある。きっと、お土産に持って帰ったのであろう。これも、両手に抱えて2本足で巣まで歩いて行ったに違いない。
 いろいろ、現場を見ながら想像が膨らんだのであるが、そもそも、なぜタヌキに気付かれたかが最大の問題として残った。ふと思い付いたのは、試しに何本か収穫して、皮やひげを畑に落とした者がいたのではないかということだ。
 たぬきが散歩がてら畑を歩いていたら、なにやら甘い匂いのする皮が落ちている。「ずっと昔、食べたことのあるあの匂いだ。父さんタヌキは引き倒して実を採っていた。よしっ」と犯行に及んだというわけだ。
 ちなみに、トウモロコシは収穫して24時間たつと、糖度が半分に落ちると教科書に書いてあった。タヌキは採れたての、一番おいしいトウモロコシを味わったに違いない。
 会社に帰ってこの件を報告すると「えええーーっ」と落胆の声が会社中に響き渡った。「犯人はタヌキだが、皮を剥いて畑に放り投げてきた者がいるはずだ」と水を向けると、ゆでて食べたら、とっても美味しかったと一人が白状した。
 でも、タヌキも味をしめた。当分、この畑にはトウモロコシは植えられまい。
 『自然農・栽培の手引き』(川口由一監修、鏡山悦子著)は、家庭菜園にもうってつけだ。10月初旬の発売開始。B5判220ページで2100円(税込み)。予約受付中。

2007.8.8 第二農園、開園

 2007年7月1日、喜びの日を迎えた。南方第二農園の開園だ。
 『農的生活のすすめ』(萬田正治他)『トリ小屋通信』(大熊良一)という農業関係の本を連続して出し、また『自然農・栽培の手引き―いのちの営み、田畑の営み』という本の出版が決まったこともあり、社内でも急に農業をしたいという機運が高まっていた。
 合鴨農家の橋口孝久さんに、貸してくれるところはないかと相談したところ、すぐに格好の土地を紹介してくれた。借地料はただ、盆暮れの土手の草払いだけが条件である。その場所は、市内川上町の県道吉田蒲生線沿いで、橋口さん宅のすぐ裏手。およそ6畝の広さがある。
 「せっかくだから、自然農でやろう」。鮫島亮二を園長に、南方新社・自然農クラブも同時に発足することになった。「耕さず、草々虫達を敵とせず」の自然農である。
 この日は、南方新社から男2名、女2名が結集した。3年ほど前まで畑だったのだが、一面にセイタカアワダチソウが生い茂っている。草刈機で刈ろうとも思ったが、残った株からどんどん芽がでるので、この際、全部引き抜くことにした。場所によってはクズや棘のあるカナムグラが絡まっていてなかなか面倒だ。だが、抜いた後はフカフカして柔らかい。土は肥えていそうである。
 汗みどろになりながら2時間余りひたすら抜いていると、1畝ほどの畑がぽっかり出現した。いよいよ植えつけである。その前にまず、1×10mほどを目安にステージ状に畝を作り上げた。その上に抜いた草を乗せていく。自然農には「持ち出さず、持ち込まず」という教えもある。つまり肥料をやらない代わりに、植物のなきがらを積み重ねて土を肥やしていこうという考え方である。草をかぶせて土を覆うのは乾燥を防ぐためでもある。
 草を掻き分けつつ、それぞれが持参した種をまいていく。枝豆、スイートコーン、インゲンなどなど。
 運営に際して、簡単なルールを決めた。①開墾した場所はそれぞれが自己管理する。収穫物も自分のもの。まく種は自分で買う。②参加費は無料(ただし土手の草刈は義務)。③参加は南方新社のメンバーに限らず自由。早いもん勝ち。開墾終了次第、募集打ち切り。

 あれからひと月余り、ちゃんと芽吹いて健気に育っている。枝豆も、小さな白い花が終わり、赤ちゃん枝豆をつけている。自分のまいた種は愛着があると見えて、自然農クラブのメンバーも仕事の合間にちょくちょく畑を覗きに行っている。「ビールと枝豆」「ビールと枝豆」……、呪文のように唱えながら、荒地も3畝ほどは開いたであろうか。

2007.7.18 万人直耕

 このひと月は出張続きだった。
 先ずは福岡行き。唐津に近い農村地帯。そこにとてつもない大物がいた。と言っても、お会いしたのは小柄な女性。
 きっかけは、2月『いのちの営み、田畑の営み―自然農・栽培の手引き』という自費出版の本を紹介する新聞記事であった。早速、入手。中身を見て仰天した。田んぼや畑を荒地の開墾から解説してある。そして畝の作り方、作物の種類ごとの植え付け、管理、収穫、タネのとり方まで丁寧にイラストつきで解説してある。本作りに相当な手間が掛かっていることがうかがえる。
 「耕さず、虫を敵とせず」という自然農は知識としては知っていたが、誰に聞いても、うまく行く筈がないという反応だった。ところが、本にはたわわに実った稲をはじめ、元気な野菜類の写真も載っている。解説どおりに作っていけば、バッチリ収穫できるという寸法だ。
 ぜひ南方新社から出版して欲しいというお願いに出向いたのである。実際に田畑を見せてもらった。これなら自分でも出来そうだという気がしてくる。しかも耕さないからラクチン。先月、カライモの苗を50本植えつけるために、よもぎの根の張った荒地を汗みどろになりながらクワで掘り起こしたことが頭をよぎった。年老いて、体力がなくなっても問題はないだろう。
 確かに、大きく稼ごうという大量生産には向かないが、自給用の農業にはもってこいのような気がする。この本、順調に行けば9月にはお目見えする。冬・春物の植え付けには間に合うだろう。乞うご期待。
 ついこの間は、大分まで行った。自給自足の農業をしながら、自然卵の養鶏で生計を立てている著者の訪問だ。鳥インフルに負けないニワトリにするためには、スズメ並みの野生に近づける外ない、と喝破する大人(たいじん)である。
 彼が、朝日新聞に連載していたコラムを本にしようと作業を進めていたのが、やっと出来上がった。電話だけで一面識もなかった著者への挨拶をすませ、大分の書店にあいさつ回り。いつものように、ビーサンと首には手ぬぐい。営業もこれですむのがありがたい。
 書名は、そのものズバリ『トリ小屋通信』。帯には「進歩、拡大、発展に背を向けて26年」と挑戦的に文字が躍る。本の中で印象に残るフレーズを一つ。安藤昌益の唱えた「万人直耕の理想社会」を目指す彼が、阪神大震災の被災者に贈ったメッセージ。「都市を捨てなさい。これが我々の激励の言葉である――」


2007.1.21〜2007.6.20

2007.6.20 五島行き

 5月下旬、気分転換に長崎・五島列島の友人宅を訪ねた。彼は私の東京時代の広告会社の同僚なのだが、実体のないものを、さも価値があるかのように飾る広告というものにすっかり嫌気がさし、戦後の開拓地後の廃村に入植して行った。かれこれ25年、農業で身を立て、見事に定着している。
 この五島行きに、東京からもう一人合流した。これも元同僚。映像制作会社に転職し、渡世の仁義からなかなか抜けられなかったのだが、この度やっと退職叶い、大工見習いとして再就職を果たした。60歳を前に、人生のやり直しである。
 二人とも、価値だの、評価だのとは縁遠い暮らしを求めている。
 私自身も、今、たびたび出張名目で会社をサボっては釣りに行き、週に一度は畑に通いクワを振るうことにしているのだが、食べることに近い行為ほど快いものはない。
 そういえば、田舎の年寄りと、サラリ―マン上がりの年金暮らしの年寄りとの立ち居振る舞いの差を実感することがある。
 田舎の畑で出会う年寄りや、近くの食堂で田植え帰りに立ち寄る年寄りは、なぜか態度がでかい、というか、堂々としている。定年のない百姓ならではだ。いくら年を取っても誰にも頭を下げることなく、生きていける自信があるからであろう。それに比べて、同窓会で出会う元教師などは、身なりはいいのだが品がない。変に威張っているか、気を使う癖が付いていて妙に腰が低いかのどちらかなのである。
 今、年金問題で世間はごたついているが、お金がないと暮らせないから恐怖におびえるのだろう。金がなくとも生きていける強さ、そんなものに憧れる。

 五島への出張中に、会社に電話を入れたら思わぬ事件が持ち上がっていた。著者の元教師が東京旅行の最中、スリにやられたらしい。金がないから10万円すぐ送れという。スタッフはどうして良いものやら分からず、おたおたしている。
 普通なら家族に電話するのだろうが、この著者はそれが出来なかった。私はその事情を知っていた。彼は二カ月ほど前、泥酔して飲み屋の階段を踏み外し頭蓋骨を陥没していた。先月病院から退院してみると、家はもぬけの殻、手紙を残して奥さんは逃げていた。おまけに虎の子の1600万円を携えて。
 正義感が強いのは良いのだが、ちょっとずれたところが気になっていた。大言壮語、大酒ぐらいで無類のスケベときていた。ついに奥さんも我慢の限界だったのだろう。私は、奥さんに同情する。奥さんは今もって行方不明のままだ。
仕方がないから10万円送るように手配したのが、戻ってくるものやら……
 ところで、この元教師は金がなくても堂々と生きていける部類だ。金をよこせ!と気弱な知り合いに声をかければいいのだから。

2007.5.25 村栄え

 515日、午前735分、前田トミさんが息を引き取った。82歳であった。川内に原発話が持ち込まれた当初から、その死に至るまで、一貫して現地・久見崎に暮らし、反対の声をあげ続けてきた。まさに闘士だった。
 以前、トミさんから伺った話をもとに、西日本新聞に「村栄え」と題したコラムを書いたことがある。以下再録して、トミさんを偲びたい。
 
 何もない田舎は、何もないことが価値なのであるが、背伸びしてちょっとましな暮らしを望むと、とんでもないババを掴まされることがある。
 笑えない話だが、九州電力川内原発はその典型なのである。
 地元の村に住み、計画当初からずっと原発を見続けている前田トミさんの話を聞いて、つくづくそう思った。
 出稼ぎで何とか暮らしを立てていた寒村に、「原発ができれば、施設での仕事がいっぱい増えて、出稼ぎに行かなくてもよくなる」と、立地担当者は胸を張って言ってまわったという。
 「九電の家族連れの職員がいっぱい住むようになるから、村には子供があふれるだろう」とも予言した。そうなると、「小学校の校舎は新築され、プールもできる」と。
 原発建設が始まってから30年後、現実はこうだ。
 いったんできてしまえば、専門知識のない地元の人にできる仕事はない。無理して働こうとしても、あるのは放射能を浴びる危険な被曝労働くらいのものである。
 小学校はどうなったか。150人はいた小学校の生徒はその後減り続け、十数人に。廃校寸前である。頼みの九電の社員は家族を危険にさらしたくないのか、はるか遠くから通勤するようになったのである。立地担当者の約束が守られたのは、歓声の絶えた小学校にのこる、鉄筋の校舎とプールだけ。
 「村栄え、人あふれる」夢は、あえなく夢に終わった。
 貧乏な田舎の人間は、大企業のエリートにころころと騙されていった、と前田さんは語る。
 田舎の人間が純朴だから騙されたのではない。欲に目がくらんで転んでいったのである。
 お金に縁がなければ、ないなりに日々の暮らしを楽しむ術を人々は知っていた。そこに、幻想の明るい村の未来が振りまかれ、とどめを刺したのは金であった。最初は反対で一致していた地元の人も、一人、また一人と口をつぐんでいったという。思いもかけない裏切りもあった。
 エリートたちは、人々の欲をあぶり出し、ウソと金を道具として、目的を成した。この世の薄汚い現実をこれほどはっきり見せてくれる原発は、逆に貴重な存在なのである。

2007.4.16 遅霜

 4月5日、久しぶりに早起きして外に出てみたら、あたり一面に霜が降りていた。遅霜である。あちゃーっ、真っ先に頭をよぎったのは、畑のこと。
 南方農園では、この間、合間を見て2畝ほどの草っぱらを開墾し、ジャガイモの種芋を植えていた。今年は昨年にもまして早く準備が整った。彼岸をすぎたからよもや霜はくるまいと高をくくっていたが、甘かった。おまけについ先日、苗もの屋で、キュウリ5本、トマト10本の苗を買って植えつけていた。
 4月8日、畑に出てみると案の定、全滅。草の間に、ジャガイモの苗だけが茶色くなってうなだれている。もちろん、キュウリやトマトもだめ。
 インターネットを見ていたら、今年、2月18日が旧暦の正月であった。彼岸の中日でさえ、旧暦2月4日。「まだまだ冬真っ最中ということか?『遅霜』対策を考える必要があるかも?」というコメントも載っていた。旧暦は、意外と季節を正確に教えてくれるものかもしれない。

 4月10日、『しまぬゆ1―1609年、奄美・琉球侵略』が産声を上げた。
 戦争で分捕った土地に居座り続ける国がある。ひどい話だが、ほかでもない、日本の話だ。1609年、薩摩の島津武士団は、奄美・琉球を侵略し、制圧した。これが今の日本につながっている。江戸期の黒糖搾取。明治期も状況は変わらず、戦後は日米のやったり取ったりの地になった。今、癒しの島だとか、日本有数の観光地になっているが、島の人々の思いは複雑だ。
 来る2009年は、侵略から四百周年、大きな節目を迎える。島の友人達から四百周年に向けてシリーズ企画を打診されたのは5年ほど前。「独立だ!イケーッ」。飲んだときの威勢は良いのだが後が続かない。そんな話はごまんとある。だが、今回は本当に絶望かと思われた。中心メンバーの一人が病に斃(たお)れ、一人はガンの闘病に入ったのだ。ただ、一人が踏みとどまった。まれに見る難産だったが、非道な国日本の、誰も振り返らない新たな非道を明らかにする。

 4月14日、諫早湾締め切り10周年のシンポジウムが諫早で。締め切ったため、諫早湾の生き物が全滅しただけでなく、汚染度を増す湾内の調整池からは、日々汚水が有明海に放出されている。さらに有明海全体の干満差が小さくなり、潮の流れも遅くなった。締め切りから10年。ノリをはじめあらゆる漁獲高は激減している。
 ここに至っても、農水省は漁獲激減と干拓との因果関係を認めていないという。農水省と長崎県はまるで裸の大様なのだが、いつまでも、そんな愚かなことは続くまい。「諦めないこと」。これを確認した諫早行きだった。

2007.3.23 明日はわが身

 3月22日。朝日新聞(大分版)の連載を本にする話があって、今記事を読みすすめている。
 著者は脱サラ百姓27年、平飼いの自然卵養鶏(800羽)を営んでいる。進歩、発展、拡大に背を向けて――という宣言が潔い。話題の鳥インフルエンザに対する見方に目から鱗が落ちた。彼は「何が起きたか」ではなく「何が起きなかったか」に注目すべきだと言う。
 これまで感染が見つかったのは、全て野鳥が入り込む余地のない近代的な鶏舎。金網で囲っているだけの、野鳥と同居しているような小規模の平飼い養鶏農家からは被害が出ていない。
 窓のない、完全に閉鎖されているはずの鶏舎(ウィンドレス)からも病気は出ている。数億個集まっても目に見えないウィルスである。どれだけ閉鎖し、消毒したつもりでも、ウィルスはもぐりこんでしまう。また、自然から隔離し、薬を使えば使うほどニワトリは免疫力を失っていく。こうして、わずかなウィルスで病気にかかるようになる。

国は、多くの予算を使って対策に力を入れているようだが、なるほど「起きなかった」自然卵養鶏農家に学ぶほうが、よっぽど理屈に合っている。彼らは免疫力を高めるために雑草や発酵飼料、菌の宝庫である腐葉土を食べさせて、ニワトリをスズメ並みの野生の状態に近づけようとしているのだ。

さて、新聞記事の読みながら??に出くわした。「チモトのぬたあえ」。著者が書いた手書き原稿の「千モト」の入力ミスであろう。血の気が引いたのは春の七草の写真。たしかにホトケノザなのだが、同名異種のホトケノザ。七草のホトケノザは、和名はコオニタビラコでタンポポに近いキク科の植物。写真は似ても似つかぬシソ科植物。
 自社本の誤植にびくびくしている身である。明日はわが身と、他社の誤植にも過剰に反応してしまう。でも、新聞はいい。通常、明日になれば今日の新聞は気にしなくてもいい。本はそうはいかぬ。たとえ正誤表を入れたとしても、売切れるまで何年も付き合っていかねばならない。
 323日。自然農の本を読んでいて、はっと気づかされた。「畝(うね)は南北」に切るべしなのである。太陽は南に傾きながら東から西に回る。南北に植えてはじめて満遍なく作物に日が当たる。東西に切った畝なら片側にしか当たらない。

なるほど、父が作っていた畑はみんな南北だった。私は東西。ちょっとしたことで違いが出てくる。畑仕事は奥が深い。


2007.2.19 貧乏性

 2月4日、久々の船釣り。船に乗るのは1年ぶりくらいではないか。
 早朝5時に谷山の釣具屋に集合。エサを仕入れて一路、知覧の松ヶ浦に向かう。6時半出港。枕崎沖まで船を走らせて、釣り場につく。
 投入。ぐぐっと竿先が揺れる。巻き上げると波間に揺れるのはイトヨリダイではないか。さい先よし。投入。すぐに2匹目がかかる。今度は大アジだ。その次はチダイ、ヒラアジ、レンコダイもかかってくる。小魚をくわえて上がってきたのはマトウダイだ。ワッハッハッハー。釣れるは釣れる。まさに入れ食い。あっという間にクーラーが満タンになった。
 この日は史上最大の大釣りとなったのだが、釣れればいろいろ考える余裕も出てくる。今でこそ、釣具屋で買ったオキアミとパン粉で撒き餌を作りそれをカゴに入れて魚を集める、そこにこれまた買った大振りのオキアミを針に付け魚を食いつかせるのだが、一昔前はそんな便利な餌は存在していなかっただろう。
 私が子どもの頃、キス釣りに行くときは、まず干潮の頃合いを見計らって川口に行き、掘ったゴカイを餌にするものだった。フナ釣りに行くときも、ミミズ取りから始めた。この海の魚を釣るために、昔は何を餌にして、その餌はどのようにして確保していたのだろう。
 そうこうするうちに2時。予定時間となり納竿。撒き餌と付け餌が大量に残っている。足りなくなるより余るくらいが良いだろうと、つい多めに買ってしまったのだ。これもいつものことで、残った餌は海に流して魚のプレゼントにするのだが、今日はなんだかもったいなくなった。同乗者の分までもらい受け、冷凍して次の釣りの餌にすることにした。
 2月12日、畑仕事。
 小さな赤い花をつけたホトケノザの合間合間に、大根、小松菜、チンゲンサイが葉っぱを広げている。種をまいたわけではない。9月、雑草の勢いが弱まったのを見計らって、草刈り機で草を刈った。そこに自然と芽吹いたのだ。正確には、春先に取り損ねた野菜に花が咲き、そこから落ちた種が目を覚ましたのである。
 あちらこちらと、拾い集めるだけでも、すぐに肥料袋一杯になる。
 家に持ち帰ってもなかなか減るものではない。放っておくと、だんだん黄色くなる。料理をする前に取り除いていたこの黄色い葉っぱが、1週間も経つとかなりな比率を占めるようになる。急にもったいなくなった。ここで、理科の知識がよみがえる。質量保存の法則。「化学反応の前後で関与する元素の種類とおのおのの量は変わらない」というもの。たしかに、緑色の葉緑素は分解されたかもしれないが、葉緑素を構成する元素や、そのほかのものは残っているはず。栄養価もほとんど同じ。実際に食べてみて、味も全く変わらなかった。最近のヒットな発見であった。

2007.1.21 揺れる脳みそ

 1214日、平良夏芽さんの講演会。
 平良夏芽さんといえば、普天間の移設対象となっている辺野古の阻止闘争の大将である。かつ牧師である。中央公民館であった会で辺野古の実際の話を聞き、あらためてその激しさに打たれた。「私たちは反対運動をしているのではない。反対、反対と言っているうちに、工事が進んだらどうする。人殺しの空港ができるのだ。具体的に止めなければ何の意味もない。トラックの前に身を投げ出して止めるのだ」。
 その迫力の前に、たじろぎ、平良さんの弱点を探し、自身のふがいなさを正当化しようとするが、やはりうなずくしかなかった。そう、止めるべきは体を投げ出して、止めるしかないのだ。
 後日、取材にきていたある新聞社の記者が、「その通りですよね。私も辺野古に行きます」と耳打ちした。
 1229日、釣り、中止。
 ずっと楽しみにしていた船釣りが、時化のため中止になった。がっくり。
 仕方なく、桜島桟橋の近くの岸壁に釣りに行く。半日、何も釣れず。ところが、隣の兄ちゃんはばんばん釣る。中アジ、チヌ、クーラー満タン。すっかり私はタモ係になる。翌日から、兄ちゃんの釣りまねる日々が始まった。まず、魚が居そうな場所に投げる。浮き、おもり、テグスの太さ、針の大きさ、エサ、全てまねればオーケー。イーヤ、一番大事なのはタナ。つまりエサを底から何センチに設定するか。潮は常に満ち引きする。それを考えながら常に底から10センチにキープするのが重要なのであった。今ではチヌ、アジをコンスタントに確保している。兄ちゃん教えてくれてありがとう。
 1月5日、正月明けに出社したら北海道の出版社から本が送られていた。それが、すごいのである。『北海道いい旅研究室9/舘浦あざらし(責任編集)/海豹舎』。北海道の温泉案内がメインなのだが、へぼな宿はけちょんけちょん。良いとこは誉める。圧巻は津波で大打撃を受け、観光に賭ける島・奥尻島の訪問記。「津波館は最低最悪の施設です」。復興事業で造られた公的施設だが、ここまでやるか、の見出し。役所の作った観光施設ほどつまらないものはないのだけど、ここまで書かれるとどれほどひどいのか、一回見に行きたくなる。もっとすごいのは、地元書店のランキングで、発売以来ずっと1位をキープしていること。
 地元の北海道新聞を「よさこいさえ批判できない腰抜け」とこき下ろし、大手旅行雑誌を「原発の広告を平気で載せるバカ」と言いたい放題。舘浦あざらしに、いまこの日本でもっとも希有で愛すべき出版人と、最大の賛辞を送ろう。
 彼のおかげで、「南方新社も初心に返ろう」というファイトがわいてきた。


2006.7.15〜2006.12.19


2006.12.19 残った一万円札

 1216日、奄美大島へ出張。
 かつて鹿児島市に道の島社という出版社を構えていた藤井勇夫さんが亡くなって2年半がすぎた。初めて田中一村に光を当てた書『アダンの画帖−田中一村伝』、奄美の料理を紹介した『シマヌジュウリ』、植物の解説書『奄美の四季と植物考』など数々の名著を残したが、事業としてはうまくいかず、さんざん借金をこさえて郷里の島に消えた藤井さんだった。
 奄美では北部の村に郷土料理屋を開業したが、これまた客が来ず、開店休業の状態が続いた。それでも、若者には好かれていた。旅の若者に無料で宿を提供するものだから、口コミで訪問者は絶えなかった。そのまま村に住み着いたIターン者も20名ほどはいるだろうか。
 藤井さんが亡くなったときも、駐車場の草刈り、家の掃除、炊き出し……、ことさら目立ちはしなかったが、あらゆることを若者たちが取り仕切っていた。
 私が奄美についたその夜、偶然にも名瀬のライブハウスにその若者たちが集まっていた。島に住み着いた者はもちろん、東京、岡山からも駆けつけていた。私も喜んで合流。3時を過ぎていただろうか、深夜まで痛飲した。
 帰ろうとすると、ごっちゃんという子が見送りに出てきた。もうろうとする眼で財布をまさぐり、1万円札を取り出した。それをいくつかに折り曲げて、彼に渡そうとした。
 「若い者は金がいるだろう。少ないが取っておけ」
 「いやいいですよ。気を遣わないでください」
 「遠慮するな、俺は社長だ。飲み代の足しにすればいいだろう」
 「いやいや、本当にいいですよ」
 「何をいってんだ。命令だ取っておけ」
 5分くらい押し問答が続いたかもしれない。最後はむりやり彼の手に押し込んだ。よろよろしながら、ホテルに向かったが、どういう風に部屋までたどり着いたかさっぱり覚えてはいない。
 翌朝、なんだかいやな予感がした。財布を開いてみるが、1万円札は無くなっていない。2枚あったはずだが、ちゃんと2枚残っている。じゃあ、渡した1万円札は何だったのだろうか? 「いやな予感」というのは、紙幣とは微妙に違う紙の感触が指先に残っていたのだ。財布にはいろんな領収書が入っている。きっとその内の1枚を渡してしまったに違いない。なんてこった。
 今思い出すたびに笑いがこみ上げてくるが、ごっちゃんにはあまりの格好悪さに、電話1本できないでいる。


2006.11.17 弁護士からの手紙

 弁護士から書類が送られてきた。事務所の封筒がいかにもいかめしい。最初、そんな封筒を見たときは、ギョッとしたものである。本の内容が気に入らず、訴えるとでもいうのか、お金を払えとでもいうのか。封を切るのに気合が入った。
 しかし、このごろはだいぶ慣れっこになった。この種の書類は4通目、どうせまた書店の倒産の通知だろう、と封を切る前から想像がつく。案の定、長崎のO書店が倒産。負債の金額を確定したいという連絡である。小社の取りっぱぐれがいくらあるか、返信せよというのだ。ご丁寧にも、「経営者にはこれといった資産はなく、自己破産の手続きに入るので、負債の取立ては不可能である」と追記してある。
 このO書店は人口14万人の諫早で、アーケードのど真ん中に位置する一番の老舗書店だった。ご多分に漏れず、郊外にショッピングセンターが出来るとアーケード街からは人が消え、次第に払いも悪くなった。何回請求してもなしの礫。このところ、毎年4月に開かれる諫早干潟の集会に行ったついでに店に出向き、やっと集金させてもらっていた。今年は腰の具合が悪かったせいもあり集会は欠席。集金もパス。おかげで15万ほどパーになった。やれやれ、である。
 いま、街から本屋がどんどん消えている。全国で3万店あった本屋さんが、ここ10年で2万店になった。毎年1千店廃業しているのだ。鹿児島でも、小社が開業して12年、50店ほどが消えただろうか。
 人の流れが変わり、大型店やロードサイド型書店が進出すると、家業型の街の書店はひとたまりもなく潰れてしまう。取りっぱぐれは痛いが、それ以上に、書店の親父やお母さんの顔が思い浮かばれてしようがない。小社の田舎臭い本は、街の本屋にこそよく似合うのだけど。
 1滴も降らない日が50日は続いただろうか、やっと雨が降った。その雨でジャガイモは甦った。鹿児島のことわざに「かいもとじゃがたは、へ(灰)で作れ」がある。サツマイモとジャガイモには灰がいい肥料になるという教えである。来週は刈り取った草を燃やして灰を作ろう。チンゲン菜や小松菜も急に元気になった。草刈機で草を払っただけの畑からは、去年のこぼれ種からいっせいに大根が芽吹いている。見ているだけでワクワクしてくる。
 月末には、『奄美の絶滅危惧植物』が出来る。稀少な植物たちを初めて紹介する本だ。世界で数株しか発見されていないアマミアワゴケなど、宝石のような花がお目見えする。乞う御期待。

2006.10.19 雨が降らない

 秋冬物は、彼岸までに植え付けを済ますように。これは亡くなった父の教えだ。でもその言葉はなかなか守れない。今年の秋ジャガ6キロの植え付けも、1週間遅れてしまった。
 春ジャガ好調の余勢をかって、秋ジャガで完勝、高笑いが我が南方農園に響き渡るはずだった。だが、どうも怪しい。植え付けが遅れたからではない。10月19日、今日のこの日になってもさっぱり雨が降らないのだ。昨日畑を見に行ったのだが、ちょぼちょぼと、種芋3個おきくらいに小さな芽が土をわずかに持ち上げているばかり。
 彼岸前に2キロ植えておいたのは、すぐに芽を出し、今では立派な茎が頼もしげに突っ立っている。こいつは大丈夫なのだが、あとから植えた奴はどうもダメだ。
 これほど雨が待ち遠しいことはない。隣の畑にオバちゃんが見回りにやってきた。オバちゃんの畑もおんなじで、芽を出さないので掘ってみたらジャガイモの種芋はすっかり腐っていたらしい。晴れ続きで地温が高くなりすぎたせいか。ヤレヤレである。
 実は昨日は、たまねぎの苗の植え付けが目的だった。100本で600円。苗を仕入れて植えつけて、あとは丸々太ったたまねぎが実るのを待つばかり。収穫は来年の春、5月だから気の長い話だけれど、ちょこちょこっと草取りすればたんまりたまねぎが手に入るというすんぽうだ。だがこれも、植えながら絶望的な気になっていった。
鍬で耕して、堆肥を入れる溝を掘っていくのだが、もうもうと土ぼこりが舞い上がる。まるでテレビでよく目にする黄河流域の乾燥地帯の畑のようだ。こんなに乾燥した畑は、長年やってきてはじめてだ。植え付けのときだけはバケツに水を汲んで一輪車で運んでくるのだが、普段はそうそう水は掛けられない。雨だけが頼りである。どうなることやら……
 1019日、倉庫の物件見学。建坪120坪で1100万円。湿気、立地ともに問題はない。借金を重ねて買ってしまうか、悩ましいところ。
 出版社の90%が東京に集中し、出版物の95%が東京発。あらゆる情報と同じように本も東京から垂れ流されてくるのだが、印刷コストは極端に言うと鹿児島の半分で済んでいる。なにしろ印刷代も製本代も、東京は大量に作り競争も激しいからコストは下がる一方というわけだ。
 コスト差に気がついて5年余。クリアする方法は自社倉庫の購入と分かっていたのだが踏ん切りがつかずにいた。中国ならもっと印刷コストは下がる。以前目にしたオーストラリアの本は「プリンティド イン ホンコン」だった。とっくの昔から国際化は進んでいたのだが、反グローバリズムを常々口にしながら中国で印刷なんて、ちょっと節操がなさ過ぎるか。

2006.9.20 台風が来た

9月17日、台風が来た。去年の9月9日に引っ越してきたから、丸一年と少しが過ぎた小社にとっての最大のピンチである。建坪70坪と大きいのだが、なにしろ築30年の古屋なのである。 
 幸い西にそれ、鹿児島が直撃を食らうことはなかったが、それでも暴風圏に入った数時間は強い風が唸りをあげていた。
 翌日18日は敬老の日。朝から様子を見に会社に出向いた。
電気のスイッチを入れる。点かない。漏電である。ヤレヤレと思いながら、雨戸で締め切った真っ暗な室内を懐中電灯を頼りにチェック。梅雨時にいつもぽたぽた漏れていたところも大丈夫。雨漏りの被害はない。今度の台風は雨が少なかったから救われた。
 外をぐるりとひと回り。案の定、瓦が30枚ほどひっくり返って、杉の平木があらわになっている。割れた瓦もある。なにしろ崖際の丘の上だ。さえぎるものもなく、風は真っぽし当たってしまう。屋根に上ってはげた瓦を置きなおしてみるが、しょせん素人。ガタガタである。手に負えないとあきらめて瓦屋さんに頼むことにした。でも応急措置が必要だ。なれない屋根の上をふらふらしながら青シートをかぶせ、土嚢を置いた。こう書くとあっという間の出来事のようだが、たっぷり半日は費やした。
 19日は仕事の日なのだが、電気屋さんに漏電箇所のチェックをしてもらい、屋根修理の手配に追われたりで仕事にならない。おまけに少し前に発覚した漏水の修理に水道屋さんも来てくれていた。
 20日、この日も仕事にならない、というか仕事をする気がしない。朝から草刈りである。ウイーンと鳴る草刈機は快調そのもの。以前から気になっていた草ぼうぼうの会社の庭をきれいに刈り上げることができた。
 それにしても台風とは不思議なものだ。子供のころから楽しみで仕方なかった。学校が休みになり、海岸には思わぬプレゼントが打ち上げられていた。非日常の悦びとでもいうものであろうか。今でも、台風で数日は仕事にならず、おまけに少なからぬ出費を余儀なくされるのだが、それも簡単にあきらめがつく。
 そうそう後で知ったのだが、台風の前日、読売新聞の全国版で小社の絵本『うんちねこ とむくん』が紹介され、台風の当日『奄美史料集成』が朝日新聞の全国書評欄に短評、台風の翌日『おかあさんのたまごのはなし』が南日本新聞に紹介されていた。こうした記事は、広告費にお金をかけられない小社にとっては、正直ありがたい。
 これも小社への「台風の贈り物」なのだろうか。

2006.8.15 田舎暮らし

 8月17日、お盆休みもあけて出社すると、細々とした仕事が溜まっている。注文の本の発送やら、貰った手紙の返事など一つひとつは大したことはないのだが、まとまるとけっこう時間をとられる。ヤレヤレと思っているところへ、続けざまに何回も電話が入った。
 対応していたスタッフに聞くと、電話の主は、大阪からやってきた団塊の世代という奴である。盆休みを利用して鹿児島を回っていて、来年4月の定年後にのんびり過ごせそうな田舎を探しているらしい。小社が『田舎暮らし大募集』という本を出しているのを聞きつけ、本を買うついでに話を聞きたいというのである。当方が訪問を受けるかどうかも確認せぬまま、道順を聞いている。交差点の度に電話をかけるものだから、五回も六回もスタッフは電話に振り回されている。我侭なことこの上ない。
 小社は出版社であって田舎暮らしの相談所ではない。そんなことはお構い無しに、団塊君は押しかけてきた。過疎地の田舎者は相談に乗るのが当然、なんでも利用してやろうというような都会人の態度が鼻につく。まともに相手をした者がいたのだろうかと思いながら、「いい話がありましたか?」と水を向けると、飛び込みで訪問した役場はどこも盆休みで、担当者に会うことすら出来なかったらしい。
 田舎回りをしている彼が高飛車なのにも理由があった。
 2007年の団塊世代の大量退職が話題になっているが、過疎に悩む村では、その誘致活動も始まっているという。体験ツアーの誘いや格安での土地・家の提供。彼の元にもその類のダイレクトメールがぽつぽつ届いている。そんなこんなで、甘やかされているのである。
 分単位で動き回り、多少の強引さがなければ生きていけない現役バリバリの都会のビジネスマンである。そんな彼がたとえ田舎に住み始めても、十年一日のごとく何も変わらずぼんやり間延びした田舎にいたたまれず、ほうほうの体で逃げ出すのにそんなに時間はかかるまい。
 小社の『田舎暮らし大募集』は、都会の価値を捨てて、新たな価値を田舎に見出して欲しいと願ったものである。都会の価値をそのまま田舎に持ち込むことなど期待してはいない。
 数を頼りに散々国中を引っ掻き回してきた連中が、今度は田舎にどっと押し寄せ好き放題引っ掻き回して、やがて飽きて都会に帰っていく。そんな構図が目に見えるようだ。

2006.7.15 ジャガイモ大豊作

 高校を卒業して30年たった。記念同窓会をしようと最近よく同窓生と顔を合わすのだが、たいてい異様に腹が出ている。同じ同窓生の医者が(彼もたいそうな肥満なのだが)、脳梗塞や心筋梗塞、糖尿病の悲惨さを持ち出して脅すものだから、スポーツジム通いが続出するはめになった。
 国内外の農民が汗水たらして作ったものを散々食べ散らかしておいて、食べ過ぎた分の余ったエネルギーを、動かない自転車をこいだいりして無駄に捨てるというわけだ。周りの景色も見ずに黙々と早足で散歩をする人も最近よく見かける。「もったいない運動」がマスコミにも取り上げられたりするが、スポーツジムや散歩ほどもったいないものはない。
 同窓生の間でスポーツジムが話題に上がる度に、私は鼻でせせら笑うことになる。「俺なんか、タダで汗を流しているぞ。おまけにジャガイモを山ほど手に入れて」。
 7月16日、晴天。春に植えつけたジャガイモの収穫をした。雪国の農家が、冬場に雪を掻き分けてキャベツや白菜を収穫しているのをテレビで見たことがあるが、夏場の南方農園では草を掻き分けなければならない。
 3月下旬に植えつけた種芋は、順調に成長し立派な茎が伸びていた。収穫期の6月にもなれば徐々に勢いをなくし、同時に害虫のニジュウヤホシテントウの最盛期になる。いつの間にかすっかり葉っぱを食われ、終いにはツユクサやイヌタデに覆われてジャガイモの茎は消えてしまっていた。しかし、あれほど立派な茎を見せていたのだから、地中にはイモがごろごろ転がっているに違いない。種芋は4キロ。1つのイモを4つに切って植えたから、一株に1個稔るだけでも16キロになる。2個なら32キロ……。期待は膨らむ。
 イモを掘る前に、小一時間、やぶ蚊の猛攻を受けながらまず草とり。さあ、とクワを入れる。あるわ、あるわ。ごろごろ転がっている。1株4個、60キロは収穫できただろうか。ワッハッハッハー。
 4キロが60キロになる。15倍だ。このことを母に話すと、とうに死んでしまったじいさんは「百姓は百倍にする」と言っていたという。米は一株にどんなに少なくても百粒は出来るだろう。からいもは種芋から無限といっていいほど蔓が出て苗になる。大根でもチンゲン菜でも、一株から百粒とはいわず種が取れる。食って、汗を流して、また食う。人間は死ぬまで「永久機関」たりうることを実感した。



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鹿児島市の郊外にある民家を会社にした「自然を愛する」出版社。自然や環境、鹿児島、奄美の本を作っています。

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