アラカブ釣り

 

 このところ寒波が来て、気温が下がり続けている。この寒さの中でも、釣り人は海に出かけていく。
 新港から与次郎に向かう海岸近くに、2軒並んだ怪しげなホテルがある。桜島の眺めは最高だろうが、すぐ下の海沿いの堤防からは、刻々と変わる波の風情も楽しめる。


 変わるだけではない。一つとして同じ波はないから見飽きることはない。波にきらめく太陽の光も、同じ輝きはない。一つとして同じ木の葉がないのと同じで、ここに人工物と決定的な違いがある。と、気になるホテルのせいで前置きが長くなった。

 

 実はこの堤防、釣りもできる一等地なのである。


 正月明け、爺さんと婆さんが釣りをしていた。テトラの間に糸を垂らす穴釣りだ。見ている間にアラカブ(和名はカサゴ)を釣り上げた。爺さんは釣り、婆さんは魚を網に入れる係だ。連携した動きはけっこう通ったことを示している。何とも微笑ましい。網の中には5匹入っていた。

 もう1匹釣り上げるまで、と見ていたら根がかりだ。どうしても針がカキやフジツボに引っかかってしまう。糸を切ってやり直し。でもこれは、上手な釣り師でも避けられないこと。


 ふと思った。ここは甲突川河口干潟の埋め立て地ではないか、その昔は、砂地だったのだ、と。堤防ぎわに置いてあるテトラの先は、今でも平坦な砂地なのだ。ウキ釣りで、テトラの向こう側を底ぎわに流せば、根がかりせずに釣れるに違いない。しかも、穴釣りは干潮に限るが、ウキ釣りなら干満を問わない。


 こうして次の週に、早速挑戦することにした。が、寒い。最強の寒波だ。迷った挙句、現場到着は日暮前の4時半過ぎになってしまった。

 仕掛けは穴釣りと同じ。ただ、ウキをつけるだけ。最初にするのは、餌がアラカブのいる底付近を流れるように、ウキ下を調整すること。ウキ下を徐々に深くしていき、ウキが寝たらオモリが底に着いた印。底から20センチに餌が流れるように調整する。

 

 

 スーパーで買った150円のキビナゴを半分に切って餌にする。第1投。餌が底に着いた瞬間、ウキが沈んだ。ゆっくりリールを巻いて、先ず1匹目をゲット。餌をつけて第2投。すぐに食いついてくる。外れなし、入れ食いだ。こうしてものの1時間で10匹釣り上げた。

 

 

 


 アラカブの味噌汁は絶品だ。刺身も、コリコリしてイケル。とても食べきれないから残りは冷凍して煮付けにしよう。1時間で10匹だから、3時間で30匹、5時間頑張れば50匹だ。無限に釣れる。こりゃあ、たまらん。

 

   

 

 

 


田舎の観光と文化

 

 テレビの旅番組は人気とあって、その数も多い。私も、うるさいだけのバラエティなど見る気がしないから、すぐチャンネルを合わせてしまう。
 とりわけ何百年とたたずむ石造りの家や老成した果樹がたたずむヨーロッパの田舎ものは、見ていて飽きが来ない。

 

 先日も、ブルガリアの田舎が放映されていた。さすがにヨーグルトが有名な国だけに、それぞれの家で種を絶やすことなく作っていた。それは旨かろう。女性レポーターも、美味しいを連発していた。
 祖母から母へ、母から娘へ、娘からそのまた娘へと連綿と同じ種が継承され、同じ味が伝えられていく。味の旨さもさることながら、ずっと続いていく文化の強靭さと、その中に暮らしがあることの安心感を思わずにはいられなかった。


 番組の終盤に、これまた伝統食のチーズが、観光客向けに村で売り出し中の商品として紹介されていた。それはいただけなかった。
 村では試食もできるという。純朴そうな普通の婆さんが、恥じらいながら試食用のチーズのかけらを差し出している。
 世渡り上手の商売人が、「はい、旨いよ!旨いよ」と連呼しながら売りつけるのはまだいい。だが、いかにも不慣れな婆さんが、やらされているのを見ると、だんだん腹が立ってきた。

 

 観光は都市生活者による文化の消費行動だという。伝統とか神とかの衣をまとう物珍しい風俗が、彼らの癒しになるのだという。交通や宿泊の業者が旗を振って、その地の文化を売り物にしていく。観光される側は、わずかのお金を求めてすり寄っていく。消費されるから売り物だが、見世物といってもいい。
 南の島では、海外資本のホテルで、民族衣装を身にした男女が伝統的な舞を披露している。神々への祈りが根底にあるのだろうが、ショーとして舞う方は、やがて舞う意味を忘れていく。

 

 私が小学時代を過ごした奄美が、いま世界遺産の登録に沸き立っている。貴重な自然が守られるのはいい。だが、歓迎する声の主のほとんどが、観光客によって落ちるお金が増えることを期待している。
 大手のホテル資本がどんどん進出して、島の文化が見世物にされていくのは、見るに忍びない。そのうちに本来の姿は消え、見世物に純化されていくだろう。


 世界中で進行中の金と引き換えにした文化破壊の一端を、そして近い将来、奄美で予想されるその姿を、ブルガリアの片田舎でチーズを差し出す婆さんに、垣間見た気がした。

 


『加計呂麻島 昭和37年/1962』

 

 今から50余年前、オーストリアの民族学者、ヨーゼフ・クライナーが奄美・加計呂麻島を訪ねた。来日した彼に、「日本文化を知りたければ、加計呂麻島に行け」と、勧めたのは柳田國男だった。
 早速この島を訪れたヨーゼフは、集落をめぐりながら、島の風景、人々の暮らし、神祭りのすべてを記録していた。今回、瀬戸内町制60周年を記念して、南方新社から『加計呂麻島 昭和37年/1962―ヨーゼフ・クライナー撮影写真集』を刊行した。

 

 

 ネガのまま、50年余り眠っていた写真の数々は、当時を鮮やかに再現してくれる。
 青い目のヨーゼフに、物珍しげに群がる子どもたち。ズックを履いた子もいれば、裸足の子もいる。小学生くらいの女の子は、赤ん坊を背負っている。屈託のない笑顔が、あちこちではじけている。

 

 大人たちは黙々と働く。農耕用の牛を飼い、田んぼをこしらえ、サトウキビ畑に通う。小舟で海に出て漁をすることもある。
 家は粗末なかやぶき屋根、道路は舗装なんかされていない。
 自然に育まれながら、静かな営みが続いていることがよく分かる。

 

 神祭りの章がある。神人、それは集落の高齢女性たちなのだが、季節の折々に神人の白い衣装をまとい、祭場に集まる。儀式の後、海辺に出てススキを海に流して、訪れた神が来年も来てくれるように祈っているシーンがある。神々しさが胸を打つ。
 昭和37年当時、島には6401人いた。今、1428人。4分の3に減ってしまった。日本中の田舎が、過疎を通り越して廃村続出の時代を迎えている。いわば、加計呂麻島は、その流れの先端にあると言っていい。

 

 

 一枚の写真が、今も目に焼き付いている。自分の体ほどもある大量のサトウキビを背負い、製糖工場まで運んでいる女性の姿だ。 じっと前を見据え、一歩一歩。ずっと同じ歩調で歩いてきたのだろう。その後ろには、赤ん坊を背負った女の子もいる。何百年と続いてきた光景だ。

 

 あるとき、この背負う女性は私たちの母の姿であり、祖母の姿であると気が付いた。この母たちの風景が消えるということは、私たちは過去を失うということではないか。だとすれば、町に住む私たちは、今を漂っているに過ぎない。


 守るべきものをなくした私たちは、時代の風に、ただ吹き流されてゆくだけなのだろうか。
 過去を奪われていることを、自覚せよ! この写真集は、そう呼びかけているように思う。

 



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鹿児島市の郊外にある民家を会社にした「自然を愛する」出版社。自然や環境、鹿児島、奄美の本を作っています。

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