葬式続き

 

 このところ葬式続きだ。知り合いが次々と鬼籍に入っていく。
 この前の月曜日は、従兄の66歳の嫁さんの葬式、水曜日は高校の同級生だ。こう、50代、60代の葬式が続けば、私たちの世代の寿命が短くなっているのがよく分かる。

 

 渡辺のジュースのもとをなめ、インスタントラーメンで育った世代だ。チクロ入りのジュースもよく飲んだ。散々売っておいて、あとから発がん性物質だと言われても困る。中国の核実験では、禿げないように雨に当たるな、と注意されたものだ。
 だが、その後も、何の反省もなく新しい人工甘味料や、よく効く農薬が次々と生まれてきた。放射能を日々垂れ流す原発もある。やれやれ。

 

 いや、今回書こうと思ったのは、そういうことではなかった。
 葬式にわざわざ来た東京の親戚が、「タカちゃん、東京に来たら寄ってね」と言ってくれたのだ。兄がヨシヒデなので、ヨシタカの私は、60歳間近になっても「タカちゃん」である。それはいいとして、気付いたのは、東京にも、どこにも行きたくない、ということ。
 つい10年ほど前は、台湾やれ、ブラジルやれ、声を掛けられたら「面白そうだ」とホイホイついていったもんだ。そう、小笠原にも行ったっけ。ところが、どこにも行く気がしない。

 どういうこと?

 

 思い当たる節がある。先日も、自分の余命というものを考えた。父が逝ってしまったのは78歳だったから、私の余命はよくて20年。寿命の縮む世代に属しているから、せいぜい10年というところか。
 だとしたら、今さら遠い見知らぬ土地に行く労力は、途方もない無駄に思えてしまう。

 

 一方で、自分はこの鹿児島の、この下田でさえ、知らないことばかりなのを日々思い知らされている。
 次々に舞い込んでくる鹿児島の歴史や民俗関係の原稿に目を通すたびに、無知を突き付けられる。自然の仕組みについてもそうだ。稲刈りの下準備に、会社の女性スタッフ2人が手伝ってくれた。裸足で泥に浸かって、ぬかるみの稲を手刈りしたのだが、ちょうどその泥に浸かった部分が2人ともかぶれてしまった。その原因が、ちっとも分からない。


 10年前は、分からなければ、そのうち分かるだろうと先送りできたが、先がないとなればどうだろう。

 こうして、何にも分からないまま終わってしまうのだろうけれど、静かに動かず、足元の広く深い世界を知ることに力を注ぎたいと、いつの間にか思い始めている自分に気が付いた。

 

 

  


トコロ天国

 

 昨年刊行した『海辺を食べる図鑑』。順調に売れているのだが、現在続編を準備中だ。重要な種類がちょこちょこ漏れているから、それを埋めなければならない。その一つがトコロテンの材料となるテングサ類の代表選手、マクサだった。今年4月の大潮、祇園の洲で待望のマクサに出会った。

 

 

 早速、持ち帰り、洗って干すこと1週間、立派な乾燥マクサに生まれ変わった。

 

 私は会う人ごとに海藻を食べるように勧めてきた。毒はないの?と聞かれるが問題ない。野草と一緒で、ちょっと噛んでみて、苦かったり、石灰質を含んでジャリジャリしたりする奴はやめておく。なにせ、海のミネラルを集めた栄養の豊富さは、陸の野菜類とは比べ物にならない。もちろん、それぞれの海藻独特の風味や歯触り、舌触りも楽しめる。


 だが、なんといっても有り難さを実感できるのは、海藻の茹で汁だ。たいていの海藻は、一旦茹でて、その後、サラダやパスタ、汁物の具にしたり、和え物にしたりする。その茹で汁が旨いのなんの。少し塩をするだけで極上のスープに仕上がる。


 これで終わりではない。だれもが驚くのは翌朝だ。なんとスッキリ!便が、通常の倍以上。腸の壁にくっついたゴミを丸ごと大掃除してくれたに違いないと思ってしまう。水溶性食物繊維の偉大なる働きだ。

 

 

 トコロテンも、海藻の茹で汁を固めたもの。材料はテングサ類を使う。
 さあ、トコロテンに挑戦だ。


 乾燥したテングサを一掴み鍋で茹でる。15〜30分。汁に少しでもとろみを感じたら大丈夫、ガーゼで濾してどんぶりに受ける。 ガーゼがなければ、金網の味噌こしで十分。常温でも固まるが、粗熱をとって冷蔵庫に入れて固めればおいしく出来上がる。

 


 食べるときは、どんぶりをひっくり返す。それを包丁でザクザク切って、醤油かポン酢で味わう。大きめに切るのがいい。細く押し出す専用の道具(天突き)なんかいらない。包丁で切れば十分。

 

  


 一度茹で汁を濾した残りのテングサも、まだ十分使える。二度目、三度目、これでもかというくらい茹でる。

 濃い茹で汁で固めに作ると、風味満点になる。極上の自家製トコロテンだ。うん、旨い。思わず唸ってしまう。

 

 

 これを食べると、市販のトコロテンは、固まるぎりぎりまで薄めて増量しているのではと、疑ってしまう。今年の夏、何度トコロテンを作っただろう。


 テングサはそこらの「道の駅」でも売っている。製品のトコロテンと同じ値段のテングサで、10倍のトコロテンができる。自分で作らない手はない。

 

 


島津家本4連発

 

 このところ、田んぼ話が続いていたが、ちゃんと本づくりの仕事もしていますよ! と言うか、仕事が立て込んで、にっちもさっちも首が回らんという状態なのです。

 

 なんと、島津家関係の歴史ものが4連発、集中して舞い込んでいる。

 

 1発目は、『鹿児島市の歴史入門』。『奄美の歴史入門』をものにした小学校の校長先生の作だ。奄美の方は、順調に売れ続けて、小社の経営を助けるロングセラーの一つとなっている。
 この鹿児島市は、なんといっても島津四兄弟の父・貴久が拠点を構えた時から南九州の中核となっていく。


 ほうほうと頷きながら編集を進めていたら、2発目『島津四兄弟』の原稿が舞い込んだ。秀吉の朝鮮出兵で蛮勇を振るい、かの国の人々に鬼シーマンズと怖れられた二男・義弘の話は聞いたことがあるだろうか? これは知らなくても、義弘の関ケ原敵中突破は有名だ。いまでも、当時を偲んで妙円寺参り、なんていうのが行われているくらいだもんね。


 長男・義久は九州制覇を目前にしながら豊臣秀吉に敗れ、髪を剃って川内太平寺で降伏した。
 三男・歳久は、秀吉との抗戦を主張したとかで秀吉に恨まれ、後の梅北の乱にかこつけて切腹させられている。
 四男・家久はいくさ上手。沖田畷の戦いで、5千の手勢で3万の龍造寺隆信軍を撃破した。「釣り野伏せ」というやつだ。あーもう駄目だと負けたふりしておびき寄せ、伏せて隠れていた両側から一気に鉄砲を撃ちかけるという、ちょっとせこい戦法と言えば言えなくもない。


 こんな話だけでなく、島津家の土台を固めた四兄弟のすべてが網羅されている。
 著者は、大学卒業後、会社に勤めながらコツコツと『島津国史』『旧記雑録』といった史料を読み込んで一冊にまとめ上げた。いや、頭が下がる。


 ふむふむと編集していたら、3発目『島津忠久と鎌倉幕府』だ。島津家初代・忠久は、源頼朝の愛する丹後の局が正妻政子の嫉妬を逃れてたどり着いた、大坂住吉大社の石の上で、雨の中、生まれたことになっている。いやいやそれは全くの作り話で、実の両親はだれそれで、という話から始まって、鎌倉幕府の権力争いの中で生き延びた忠久の実像が詳細に綴られている。原稿用紙1000枚の労作だ。


 へーと唸っていたら、4発目『梅北一揆の研究』が、高名な紙屋敦之先生から届いた。秀吉の統一政権に異を唱えた一群の人々が、この鹿児島に存在したのである。


 4本で3500枚だ。読むだけで息が上がる。ふー。

 



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鹿児島市の郊外にある民家を会社にした「自然を愛する」出版社。自然や環境、鹿児島、奄美の本を作っています。

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