2008.7.17〜2008.12.19


2008.12.19 南九州の風土病

 12月、小社では、とても重要な一冊を刊行した。
 ずっと出したいと思っていれば、機会は巡ってくるものなんだね。
 それは、ほとんど放置されたに等しい病気と、その原因ウイルスに関する初めての解説書『成人T細胞白血病(ATL)とHAM』。
 なんだか難しそう、自分とは関係ない、と思ったら大間違い。おおありなのですよ、これが。
 双方とも発症の原因は、HTLV1ウイルスの感染だが、このウイルスの感染者(キャリア)は縄文系の日本人に偏っていて、九州・沖縄では5%、特に鹿児島では10%、10人に1人がキャリア!!!
 この文章を読んでいるあなた、あなたもキャリアかもよ。
 で、この両方の病気は、発症予防、および完治の方法とも確立されていない。ATLは、ひどいことに、発症すれば2年以内にほとんど死亡するといわれている。
 何故、放置されたに等しいの?と考えてみた。つまり、一種の風土病的な認識が、国を挙げての対策をとらせなかった原因だろう。ま、田舎の人間が死のうが生きようが関係ないということですね。ところがどっこい、今キャリアは全国に拡散している。結果、日本国内の(キャリア)は120万人にのぼると推計されている。
 もう一つは、キャリアでも発症しない人が多く、発症率が5%と低いこと。さらに成人T細胞白血病という名の通り40代、50代以降に発症するという病気で、平均寿命の短かったかつては問題にはならなかった。ところが、寿命が延びちゃった。
 患者も全国的に発生するようになっている。九州以外では、病名の特定も出来ず、適切な治療も出来ないということさえ起きている。困った。
 現状の課題は以下のように集約できる。
 ①感染予防の対策をとること。主要な感染ルートは、母子感染。母乳の短期化で予防できる。あと、性感染。これはほとんど無政府状態だよ。
 ②最新の治療を全国的に同水準に行えるように、医学会に注意を喚起すること。うーん。
 ③同じレトロウイルスのエイズ(HIV)ウイルスで可能になったように、発症予防、治療法の確立を急ぐこと。これには、国の財政的な大きな力が必要となる。うーーん。
 もう一つ、同時に出したのが『成人T細胞白血病 ATL闘病記』。「発症から6年元気です」が帯の宣伝文句。長期生存者は、キャリア、患者にとって何よりの希望なのです。

2008.10.20 タヌキ事件

 平和な日常に、突然悲しい事件が持ち上がることもある。
 その日、1025日、会社に出勤すると駐車場奥のトリ小屋の周りに人だかりが出来ていた(といっても、全スタッフ7人なのだが)。小屋の中を覗いてみると白い羽毛が散乱している。入り口の板壁には、血が飛び散っている。
 数えてみると、2羽いたはずのオスが1羽しかいない。メスの3羽は無事だ。
 やられてしまった。これまで、イタチとかタヌキとかの獣害を散々聞かされていたから、こちらも充分対策を施していたつもりだった。でも、敵の食欲はそれを上回った。
 これまでも、イタチらしきものの痕跡は度々目にしていた。小屋の周りにあちこち、掘り返した跡があった。侵入を図るためだ。こちらはそれを見越して30センチほど、魚網を埋め込んでいた。
 だが今回は、大胆にも壁代わりの魚網を食いちぎり、大穴を開けて侵入に成功していた。
 イタチは血だけ吸って退散するらしいから、タヌキの仕業である。侵入したタヌキと、仲間を守ろうと立ち向かった勇気あるオス。壮絶なバトルの末にオスは敗れ去った。
 裏山の方に、転々と羽毛が落ちている。タヌキのねぐらはその方向にある。
 現場検証しながら、ふと、タヌキの団欒が目に浮かんだ。きっと襲ったのは父親タヌキである。意気揚々と家族の待つねぐらに持ち帰り、新鮮なニワトリを振舞う父タヌキ。妻と子ダヌキは大喜びしたに違いない。
 もともと、2羽のオスは必要ではなく、そのオスは年末につぶす予定だった。人間が食い散らかすよりはるかに無駄なくタヌキの腹に治まったはずだから、鶏は本望だったかもしれない。
 しかし、当方も続けてくれてやるほどお人よしではない。魚網を補修し、タヌキの背の届く範囲には、桟を張り巡らせた。一番の工夫は、タヌキがやってきた獣道に、オシッコをかけること。人の匂いを嫌うはずだ。もよおすと、わざわざトリ小屋の裏手に回って、今でもせっせとかけている。
 そのせいか、その後襲われることなく、メスは1日3個の卵を産み続けている。

 113日、山尾三省生誕70年祭があり、実行委員の一人として参加した。著作を読み返しながら、今でも三省の思想は色あせていないとつくづく思った。とりわけ部族宣言ともいえる一文。この社会は欲望をテコに無数のピラミッドを形作る。政治、宗教、詩壇、画壇……。それは抑圧の装置に他ならない。拒否しよう、と。

2008.10.20 大豊作

 1015日。下田の事務所近くも稲刈り真っ最中である。
 昼休み時、仕掛けておいたカニかごを見回りに川岸をウロウロしていると、遠くの田んぼからしきりに話しかけてくるじいさんがいた。立ち姿が、よほど知り合いに似ていたのであろう。「ちがう、ちがう」と手で合図しても、かまわず婆さんと二人で向かってくる。
 仕方がないから、相手をしようと腹を決めた。じいさんも婆さんも、稲刈りの途中とはいえ、何もすることはなかった。頼んだ若手が、4条刈りでバーッと刈っていくのである。じいさんも婆さんも見ているだけ、立派な出で立ちをしていたが、ちっとも汚れていなかった。
 いい大人が、昼間からウロウロしているわけを話す。山太郎ガニを狙っていたが、獲物はゼロだったことなど。
 じいさんは、昔はバケツいっぱい簡単に捕れたとか、どこを狙えとか、時期は十五夜の頃だとか話を続けた。見知らぬ者同士の終わりのない世間話である。
 しかし、こうも年寄りを無警戒にし、開放的にさせたのは近年まれな豊作のせいだろう。台風も来ず、ウンカ(じいさん曰く秋虫)も湧かなかった。
 1反くらいの田で収穫する米は、金に換算したらいくらにもならない。人を頼めば出費もかさむ。でもニコニコ顔だ。
 太陽の下で食い物を得るということは、空調の効いた部屋で金を稼ぐ何倍も、人を幸せにするのだとつくづく感じた。

 1020日。幸福な話とは正反対のキリキリ神経の痛む企画がいよいよスタートする。全25巻の本を出すことにした。著者は鹿児島在住の民俗学者、下野敏見さんだ。
 権力の歴史は文字化されている。だが、民衆の歴史には文字はない。あるのは暮らしの中で伝えられてきた、言葉、民話、民具、祭り、儀礼などである。ここから、この地の民がどこから来て、どう暮らしてきたかを再現できる。
 日本の中央集権化とともに、貴重な民衆の記憶も、どんどん消えてきた。今、下野さんの調査記録はとてつもない価値を持つ。
 全25巻は願ってもない大仕事だが、出て行くお金も桁違いに大きい。毎回本を出すのはバクチだが、今度の今度は大バクチだ。でも後には引けない。引くつもりもない。
 各巻3675円、セット予約なら各巻3150円。3年がかりで随時出していく。心ある読者の、セット予約を待つ。
 TEL099-248-5455FAX099-248-5457

2008.9.18 クワガタ大作戦

 118匹。八月、会社の近くで捕まえたクワガタムシの数である。
 山に囲まれた事務所だから、ちょっと足をのばせばクワガタの1匹や2匹、すぐに見つけられる。でも、百匹の大台に乗せるとなると、ことは簡単ではなかった。原稿を放り出して、連日暑い盛りに捕りに行くはめになった。遊びではない。これもれっきとした仕事、しかも、考え抜いた作戦に基づいた仕事であった。
 作戦とはこうだ。市内の巨大ショッピングセンター・イオンで出版フェアをすることになった。しかし、普通に本を並べただけでは売れそうもない。本を買えば、クワガタ1匹プレゼント。これだ!
 クワガタで、店内の子どもを集める。子どもは欲しがり駄々をこね、親は仕方なく本を買うという構図だ。
 フェア当日、作戦はまんまと当たった。たちまち、ちびっ子たちが群れに群れた。それも一日中途切れることなく。だが、作戦的中はここまで。欲しそうな顔をしようが、駄々をこねようが、母親は知らんぷり。世の母親も冷たいものだ。「見るだけね」と子どもに約束を迫る親もいた。
 慌てて、「虫を飼うと成績が上がる」と、まるで根拠のないウソポスターをでかでかと書いたりしたが、効果ゼロ。
 本は売れないわ、逃げ出したやつが吹き抜けを三階まで飛んで、大騒ぎになるわ、散々だった。大量に残ったクワガタは下田の山に帰っていった。
 10匹。これは9月に入ってから捕まえた山太郎ガニの数。
 会社近く、下田の田んぼの真ん中には稲荷川が流れている。ニシムタで一つ400円也で仕入れたカニかごを4つ、魚のあらを中に放りこんで、川に仕掛けておく。夜の内にかかったやつを翌朝捕るという寸法だ。大きいものは甲羅の大きさが握りこぶしくらいある。
 朝、出社する前にぐるっと仕掛けを見て回る。わくわくする瞬間だ。おっ、いるいる! これまでの最高記録は、一かごに4匹。もう笑いが止まらない。ワッハッハッハー。
 山太郎ガニは、かの有名な上海ガニの兄弟。上海で食えば1匹ン千円。下田の上海ガニは何匹でも、ただ。ワッハッハッハー。
 農薬が気にならないことはないが、私も51歳。うまいものを食うことを優先させる。会社の若いスタッフが食べたそうな顔をしても、農薬のせいにしてあげない。でも、大人も子どもも安心して食えるカニのために、農薬が消える世の中を心から願う。
 23個。9月18日現在、会社で飼っているニワトリの産んだ卵の数。9月3日、初産。この話はまた今度。

2008.7.17 諏訪之瀬行き

 今週も、奄美大島に行ってきた。しばしば島に行くのだが、6月にはトカラの諏訪之瀬島に行った。諏訪之瀬は全く予定になかった島行きであった。あまりの間抜けさに、書けずにいたが、今回、ことの成行きを白状する。
 6月4日のお昼過ぎに、若い女性が知人に連れられて会社を訪ねてきた。その日の諏訪之瀬行きの船に乗るという。出港は夜の11時だから昼間の時間潰しに立ち寄ったというわけだ。それでも遠来の客人にはビールや焼酎を振舞うのが小社の掟。ましてや、近来まれな若い女性の訪問ともなればなおさらだ。世間話をするうちにすっかりいい調子になり、出航まで天文館で飲みなおそうということになった。
 何件か飲み歩いて、出航に充分間に合うようにと10時過ぎには港に着いた。船の中まで乗り込んで見送り出来るのが、この手の船のいいところ。3階にあるレストランを覗くと、見知った顔がビールを飲んでいるではないか。小社から詩集を出した著者だ。出港までのわずかな時間だが、私と著者、知人、若い女性の四人で、またビールを飲もうということになった。またまた調子よく飲んでいたとき、ふと知人が時計を見た。11時だ。
 バタバタとあわてて乗船口に向かったが、時すでに遅し。船は岸壁からすでに2メートルは離れていた。
 なんてこった。飛び降りるのはもう無理だ。観念して島に行くことにした。あとはヤケ酒だ。全くの手ぶらで、着替えもない。手持ちのお金も飲み尽くして、残りわずか。
 翌朝9時過ぎに島に着いた。二日酔いでふらふらしながら島に降り立つと、何人も見知った顔がある。訳を話すと爆笑だ。苦境を知って、その日はYさんが泊めてくれることになった。Yさん宅でしばし休息。あたりを散策することにしたが、出会う人毎にくすくす笑いが漏れる。
 ものの数時間で、私たちの間抜けさは島中の人の知るところとなったようだ。バツの悪いことこの上ない。これじゃ出歩けもしない。
 会社にも、丸二日間、欠勤することを伝えたが、電話の向こうであきれているのがよく分かった。
 南の島の人はおおらかだという。だが、十島丸の切符係の人は厳しかった。お金の持ち合わせはないというのに、しっかり往復1万4千円の船賃は請求された。何とかYさんに借りて支払ったが、こいつは痛かった。
 丸々二日間と、1万4千円の穴はあけたが、笑ってもらえる話の種が一つできたから、まあ良しとしよう。

2008.7.17 小松家の亡霊

 この七月、父の七回忌のために田舎の寺でお経を上げてもらった。田舎は日吉町吉利。村に一つしかない寺だから、葬式や法事は全てこの寺の坊さんにお願いすることになる。
 年忌のたびに、本堂に親戚一同がかしこまり、お経を上げてもらうのだが、今年はいつもと違った。
 吉利といえば、江戸期小松家の私領であった。NHKの「篤姫」で一躍注目を集めている小松帯刀の本宅があったところだ。いってみれば、小松家は吉利のお殿様でもあった。
 寺に着くと、境内の入り口にある小松帯刀の銅像が最初に目に飛び込んできた。偉大なるNHKの力はこんな田舎にも及んでいた。たたいてみると、ポンポンと乾いた音のするプラスチックだというのが可笑しかったけれど。
 長いお経が終わりホッとしていると、今度は、坊さんが寺と小松家の関係を話し始めた。
 いつも私たちが拝んでいた本尊の仏像は、帯刀の妻チカが持っていたものを譲り受けたものだという。さらにこの寺は、小松家の菩提寺になっているというのである。
 よく見ると、本尊の傍らには、小松家の位牌らしきものが、仰々しく置いてあるではないか。
 この寺は、明治期に建てられた浄土真宗大谷派の寺である。江戸期の菩提寺であった曹洞宗の寺は廃仏毀釈でめちゃくちゃにやられていた。村に一つの真宗の寺が、小松家の供養をすることになったのである。
 それは仕方がない。でも、坊さんの誇らしげな話を聞きながら、私が思ったのは、「やれやれ、親父さんは死んでからも、小松家の殿さんの前にひれ伏して行かねばならないのか」ということである。
 江戸期の薩摩農民は八公二民という重税にあえいでいた。この吉利村のピラミッドは、小松の殿を頂点に、麓の士族、そして七割強の農民という具合に築かれていた。
 おまけに真宗といえば、薩摩藩では厳しく弾圧されてきたではないか。
 「阿弥陀如来の前には、全てのいのちは等しい」。この真宗の教えが、強固な身分制によって体制を維持してきた島津家の怒りにあい、殉教の屍を重ねてきたことを、この坊さんは知らぬはずはなかろう。
 知っていながら、それでもなお小松家の菩提寺たるを誇るとは、どういうことなのだろうか。よく分からなくなってくる。
 よく考えたら、私も死んだらこの坊さんに経を上げられる羽目になる。こうなれば、簡単に死ぬこともできない。


2008.2.14〜2008.6.15


2008.6.15 トリ小屋プロジェクト・その2

 5月25日に、一日がかりでトリ小屋の棟上げを終えた。会社の庭の片隅に鎮座するのは、畳4枚分の広さ、高さは2メートルほどの、なかなか立派なトリ小屋だ。
 私1人でやったわけではない。昼過ぎから3人が手伝いに来てくれて、会社のスタッフも含めて合計5人がかりだった。
 手伝いは、特に無理にお願いしたわけではなかった。みんな小屋を作りたかったのだ。1人は木切れを集めて立派なドアを作り上げた。もう1人は、ミカン箱のような産卵のための部屋作り。1人はずっと鉈で孟宗竹を二つに割り続けた。これは壁代わりに柱に打ち付けるためのものである。
 私は、もっぱら土木工事。柱を乗せるブロックを固定し、小屋の敷地の周りに排水用の溝を山グワで掘った。庭は砂利で固めてあったから、これはたいそう骨が折れた。そうそう穴を掘って柱を立て、止まり木を作るのも私の仕事だった。
 こうした準備作業を終えると、全員で棟上げだ。柱を支えながら、桁をカスガイで留めていく。スジカイで柱と桁がぶれないように固定し、屋根には孟宗竹を丸太のままモヤとして並べていった。
 全員汗みどろになりながら、トリ小屋としての全体像を見るまでには、たっぷり夕方までかかった。
 眺めながら、悦に入った。とにかく出来たのである。手伝い人からは「これで壁と床を張ったら立派な家だ」「この次は家を作ろう」などという軽口も出た。
 考えてみれば、4畳の広さのある小屋の棟上げが、たった一日で出来たのである。地震や水害で家が潰れても、雨露をしのげる程度なら、すぐにどうにか出来るという自信が付いたのも事実である。
 最近、子どもの教育に関連して「生きる力をつける」という言葉にしばしば出合うが、どうも、他者との競争を前提にしているような気がする。
 そうではなく、衣食住を自分自身で調達出来るのが本来の「生きる力」であろう。だとすると、私たちは遅まきながら、住の部分でほんのちょっぴり「生きる力」を獲得できたということになる。
 金があれば何でも調達できる社会は、逆にもし金がなければ、という恐怖に、常にさいなまれることになる。
 為政者は恐怖をいかに巧妙にコントロールするかである、という俚諺が、ここに立ち現れてくる。私たちが自由であるためには、金を介在させずに衣食住をそれぞれが調達できるようになること、などとちょっと真面目に考えた。

2008.5.15 トリ小屋プロジェクト

 卵かけご飯が無性に食べたくなる時がある。だが、スーパーの卵では食べる気がしない。
 ウソかホントか、卵好きの女の子が毎日2.3個食べていたら、4歳から生理が始まったという話を聞いたことがある。餌に混ぜられている成長ホルモンのせいだ。
 こういうとき、出版社をしていてよかったと思う。小社には、『トリ小屋通信』(小社刊)の著者がいる。先日、自然卵(小羽数平飼い、薬剤フリー)をダンボール1箱、送ってもらうことができた。会社の皆で山分けしたのだが、おいしいこと、おいしいこと。
 その舌の感触も新鮮な昼下がり、不思議な巡り合いがあった。アイガモ農家の橋口さんちに伺ったら、庭先でなにやらピヨピヨ鳴いているではないか。箱の中を覗くとヒヨコだった。近所の農家に頼まれて、飼いやすい大きさになるまで面倒を見ているとのこと。
 「何匹か貰えんですかぁ」と私。「3、4匹余るはずだからただでいいよ」と橋口さん。
 よーし! 会社でニワトリを飼おう! このご時世、出版社もいつまでもつか分からない。繁殖させて、100羽まで増やそう。卵も売ろう。夢は膨らんだ。
 テキストもすぐに買い求めた。この世界では教祖的な信望を集めている中島正の著『自然卵養鶏法』(農文協)である。
 うれしいことに、トリ小屋の作り方も丁寧に図入りで載っている。
 「鶏は審美眼を持たないのだから、どんなに豪華な鶏舎を与えたところで、そのために喜んだり、感謝したりすることはない。いかに近隣、友人、知人、業界などがそのお粗末な鶏舎を軽蔑しようとも、鶏はぜんぜん気にしていないのだ」
 なんとも心強いメッセージではないか。
 よし! ただで作るぞ。
 知り合いに廃材を頼んだら、家一件分の材木を手配してくれた。孟宗竹も別な知り合いがただでくれることになった。
 高校時代のチリメン漁師の友人には、いらなくなった魚網を頼んだ。これで金網を買わずにすむ。
 雨漏りしたら可哀相だから、トタンだけは買うことにしたが、あとは一円も使わずにすみそうだ。
 会社のほかの社員に気付かれないように、仕事中にこっそり設計図も描いた。何度も何度も、修正したから完璧だ。
 いよいよ、来週はトリ小屋の棟上だ。ニワトリ飼うぞー。卵をとるぞー。うまいぞー。トリも食うぞー!!

2008.4.25 父島人肉食事件

 小社は鹿児島にあるのだが、小笠原本も、これまで4冊出している。そのお陰で、3年前には小笠原まで実際に行くことが出来た。
 東京の竹芝桟橋から船で30時間、飛行機は通っていない。一週間に一便だから、向こうで5日間は滞在しなければならない。本の営業に行ったのだが、狭い島のこと、ものの半日もぶらつけば仕事は終わってしまう。後は青い空、青い海、色とりどりの魚……。極楽生活である。
 鹿児島に暮らす人で、小笠原まで行った人はほとんどいないだろう。10人くらいか。羨ましがる人はあまりいないが、何となく鼻が高い。
 戦後、米軍政下に置かれた小笠原諸島も、今年、日本復帰50周年を迎える。このタイミングに合わせようと、戦中戦後史の原稿が、また新たに舞い込んできた。
 著者は米国人の研究者エルドリッヂ。阪大の助教授だが、米軍の太平洋軍司令官の政策顧問もやっていたからちょっと怪しい。小社内でのニックネームはCIA。でも、原稿はとても面白い。
 タイトルは『硫黄島と小笠原をめぐる日米関係』。米公開公文書を駆使して、アメリカの軍事戦略を明らかにする。現在の基地問題の背景を知るために不可欠の書となろう。
 1000枚を超える原稿を読むのはたいそう骨が折れるが、アメリカ側の資料はなかなか興味深い。
 凄まじい硫黄島戦。栗林中将は、米軍が期待したおろかなバンザイ攻撃をとらなかった。そのせいで、アメリカ側の死傷者が日本を上回ったのだ。
 原稿を繰っていてあっけにとられたのは、父島人肉食事件である。
 撃墜して捕虜にした米軍のパイロットを処刑し、軍医に解体させた肝臓や太ももの肉を、立花芳夫少将らが、宴会ですき焼きにして食べていたのである。
 これまで断片的には知られていたのだが、今回米側の資料、特に日本で初めてグアム戦犯裁判の記録を用いることで、全容が明らかになった。目的は戦意高揚。吐き気をもよおした部下にも無理やり食べさせたという。
 食べられたのは一人ではなかった。ホール少尉他、少なくとも4人の名が確認されている。
 ブッシュの親父(元大統領)も、父島沖で撃墜された。米潜水艦に救助されたが、一歩間違えば食べられていたのである。
 日本軍の狂気を細部まで明らかにした本は、なかなかお目にかかれない。米国人ならではの視点か。しかし、この人肉食事件には本当にたまげた。
 本書は6月刊行予定。予約可。

2008.3.25 私有制とゴミ

 会社の事務所は下田町にある。市街地から車で15分ほどというのに、辺りにはのどかな田園風景が広がる。
 心安らぐ申し分のない環境なのだが、最近気になることがある。それは、道端に空き缶や弁当ガラのゴミが散乱しているのである。冬場草が枯れると、捨てられたゴミが姿を現してくる。
 白いビニールゴミはなかなか朽ちないから、ずっとそこにある。何年も前の奴から、最近のものまで、累積されて今がある。
 誰がどういう気持ちで捨てるのかを考えていると、ふと思い至った。私有制が、このゴミ捨ての根本原因ではないかと。まさか自分の庭や畑の内には捨てまい。ところが、外の他人の土地には平気で捨てる。私有の概念がなく、内と外の区別がなければ、誰も捨てないのではないか。
 先日奄美で磯遊びをしたとき、浜辺のゴミを見ながら友人にこのことを話したら、一島共有地、つまり土地私有のない沖縄の久高島にはゴミ一つ落ちていないと教えられた。私の仮説は当たっていたことになる。
 もう一つ。今から70年ほど前、米デュポン社のカロザースがナイロンを発明し白紙の小切手を社長からもらったという「美談」がある。だが、このカロザースのようなプラスチック製品の開発者こそが、汚いゴミを作った最大の張本人ではないかと思うのである。
 私も畑仕事の折など、ミカンの皮とかはそこらの山に捨てる。それらはすぐに朽ちて土になる。だが、ビニールは朽ちない。
 作れば売るのが私企業である。後先考えずに売りまくる。製造者責任が言われ出したのは最近のこと。それでも、まだまだ不十分な事はリサイクル法を見ても明らかだ。
 世界市場で売るためには相手国の文化さえ平気で変える。買った市民も悪いという論理もあるが、買わされていく構造も見なければならない。原発の電気と同じである。原発以外の電気を選択することは残念ながら私たちにはできない。
 川内のゴミ処分場建設が問題になっている。土地の透水性が焦点になっているが、本質はそこにはない。ゴミを誰が作ったのか、そこに根っ子がある。どこにも完全な土地などない。漏れるに決まっているし、やがて地下水は汚染される。
 作ることをやめさせるか、ゴミ処分場を作らせないか。ニワトリが先か卵が先かの例えがここに生かされよう。ゴミ問題から永久に解放されるために、ゴミ処分場を作らせないという運動はとても大切なのだと思う。

2008.2.25 正月明け

年も明けるといろんな話が舞い込む。
 116日。某著者の自宅丸焼けの連絡。それも、年末ギリギリ、12月の31日のことだったという。
 以前にもこの欄で紹介したことがある。飲み屋の階段から転げ落ちて目を失明しそうになったとか、退院して帰宅したら、嫁さんが虎の子の1600万入りの通帳とともに消えていたとか、遊びに行った東京ではスリに会い10万送れと言う電話が南方新社に入ったりとか……。何かと話題には事欠かない人である。
 よくよく聞いてみたら、数日家を空けていたから、放火以外には考えられないという。戦前のアジアにおける日本軍について、新聞にも投稿していた。「殺してやる」と言う脅迫電話が頻繁にかかってきていたらしい。
 おっ、南方新社にも、「天皇からもらった日本刀で手と足を切りにいく」という電話が、ずっと前にかかってきたことがあったっけ。気をつけよおっと。
 1月20日。取引先の書店がまた一つ閉店した。問題は70万ほどの未入金があるということ。
 小社は書店さんに本を委託して売れた分を支払ってもらうようにしているのだが、書店も、景気が悪くなると売上代金をそのまま生活費に回してしまう。去年潰れた書店などは売上代金を全てオヤジが飲み食いバクチに使ったものだから、被ったお金は250万ほどになってしまった。あれはうっかりしていた。
 今回は、3年ほど前からおかしくなっていたのでマークしていた。支払い依頼にも何回か足を運んだ。その都度、80歳を超えたであろうおばあちゃんが、缶コーヒーをくれるものだから、ついつい強くも言えないでいた。やれやれどうしたもんだか。
 それにしても、年明け早々、痛い。
 1月26日、川内原発温排水口の周辺で、異様な光景を目にする。
 なんと、ヒラアジが釣れに釣れているのだ。県外ナンバーの車も何台か駐車場にある。熊本から来た3人組は大きいクーラーボックス満タンだ。
 ヒラアジといってもカスミアジ、ロウニンアジといった南方系の魚の幼魚である。死滅回遊魚なのだが、周辺海水より8度高い温排水に引かれ集まってきた。だが、温排水にはパイプに貝の付着を防ぐために毒(九電によるとカルキ)が混ざっている。餌になる小魚はいない。腹をすかせた魚達はルアーに脇目もふらず飛びついている。浜には、毒で死んだ大量の貝の殻や、1メートルを超えるダツの死骸が2匹打ち上げられ、カラスが群れていた。

2008.02.14 ご挨拶

拝啓 皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
 毎度のことながら、今年も年が明けてからのご挨拶。積み残しの仕事を山と残しながら、ともあれ2007年、南方新社も何とか1年を終わることができました。
 小社の著者の一人である鹿児島大学理学部の橋爪健郎先生に誘われて、大学で地球環境エネルギー論という講義をするようになって3年を過ぎました。
 近年の温暖化・CO2原因説は、政府および企業が錦の御旗にすればするほど胡散臭さが増すように感じるのは、私だけでしょうか。昨年の日本物理学会でも、CO2との関係は証明されないという報告がなされ、学問的にも決着はついていないようです。
 しかしながら、近代資本主義が限りなく破壊を続けているのは事実です。密林の消滅や砂漠化は分かりやすいのですが、私たちの足元も生態系の破壊と、文化の破壊は延々と続いています。薩摩隼人(嫌な言葉ですが大和魂も)とかの言葉はすっかり実体をなくし、私たち自身がすっかり欧米的な思考に染まりきっているから、何も気がつかないだけなのでしょう。
 大学では、破壊から身を護る術として、膨張を続ける都市と決別し人と物の移動を小さくする地域自給からの発想を展開しました。地域の歴史、人と自然が融合した暮らしの知恵、地域の自然の多様さと生態系……。これらは、南方新社の出版活動とオーバーラップするものでした。
 さて2008年、刊行を決定しているものとして、手元にあるものを含めて3月までに20本ほどの原稿が届く予定です。今年は、近年になく多くの本を出す事になりそうです。貴重な地域資源の出版と、出版社としての継続。なんとか両立を果たしていければと、毎年のように新年の願いです。


2007年10大ニュース&スタッフからのお便り


とりあえず 賀正 2008元旦

★ジャーン。設立15年目に突入。刊行点数250点突破。年賀に代えて近況報告。


2007年の10大ニュース

3月16日 社員Jの送別会。大阪の彼氏の下に行くという。去年のこの日、佐賀県庁前のテントで座り込みをしていた元気者だ。シアワセニナァー
3月20日 『しまぬゆ1』刊行。薩摩・島津軍の奄美侵略400周年を来年に控え、奄美から反撃が始まった。シリーズ第1弾の特集は義冨弘氏による古代から1609年までの通史。昇曙夢『大奄美史』(1949刊)、坂口徳太郎『奄美大島史』(1921刊)の両巨頭に修正を加え、まとめ上げた決定版だ。奄美の歴史を語るならこの本を見よ。スゴイッ
4月20日 『鹿実野球と久保克之』刊行。久保監督の手の平を見せてもらった。グローブのような分厚さ。一日、千本以上のノックを35年間打ち続けてきた手だ。ウーン
5月15日 午前7時35分、前田トミさん逝去。82歳。川内に原発話が持ち込まれた当初からずっと現地・久見崎に暮らし、原発はいらないと言い続けてきた。ここ10年余りのお付き合いだったが、県庁前で、九電本社前で、川内市街地で、原発ゲート前で……、様々なシーンが甦る。黙祷
5月16日 南日本出版文化賞に小社刊『大石兵六夢物語のすべて』が受賞した。著者は文学研究者の伊牟田經久氏。キチンとした先生だけに、小社の編集作業はほとんどなし。それでも版元としては鼻が高い。どんなもんだ。エッヘン
6月10日 椋鳩十『ヤクザル大王』を復刊。逝去の前年に刊行。全集にも収録されていない幻の名作である。骨太の文体は、主人公ホシにいつの間にか同一化させる。ホシ、逃げるんだ。人間なんかに撃たれるんじゃない! ニゲロー
7月  1日 南方第2農園開園。会社の近く、一面にセイタカアワダチソウが生い茂る耕作放棄地6畝を借り受けた。汗みどろになりながら2時間余りひたすら草を抜くと、1畝ほどの畑がぽっかり。「耕さず、草々虫達を敵とせず」の自然農のスタートだ。ヤッホー
9月  1日 トカラ列島諏訪之瀬島に社員旅行。小屋泊、寝袋持参に女子スタッフは全員ボイコット。結局、向原と鮫島の2名のみ。防波堤には数百の大魚が群れている。オーッ
12月  5日 『南西諸島史料集全5巻』の第1巻が出来。5年がかりで年1巻ずつ出す予定だ。セット予約でも各巻1万5750円という高額本。奄美の歴史研究に必須の根本史料集なのだが、問題は売れ行き。1巻ごとの赤字がカケル5になるビクビク本でもある。今の売れ行きは、ヒミツ。来年からがんばるぞ。オーッ
12月15日 南方第2農園の収穫祭を敢行。場所は下田町、会社の中庭。総勢20名。全くの季節外れ、寒風吹きすさぶ野外バーベキューに招待された書店さんこそ、いい迷惑? 有機野菜の豚汁にアイガモの炭火焼、ジャーマンポテトに極上のドブロク! そのほか焼酎浴びるほど。全壊1名。半壊は数知れず。来年の再会を約して無法地帯の夜は更けた。ワオーーッ

★2008年も新刊目白押し。乞うご期待。



スタッフからのお便り
 
「野菜作り」を始めた。編集を担当した本、『農的生活のすすめ』にすっかり影響を受けた私。週末、会社が借りた畑で農作業をしている。青い長靴に、選び抜いて買った花柄のほおかぶり姿で、土と汗にまみれるのも、心地よい。先日、数年ぶりに会った知人に畑の話をすると、「あの坂元さんが!」とすごく驚かれた。どうやら私は変身したらしい。
人の心を動かす威力を持った本。今年も作れたらいいなと思う。(坂元)

去年8月下旬、ニュージーランドへ旅した。出発2日前に1人増え、女3人の自由気ままな旅。現地で交渉の手作り旅だ。心配だった入国手続きや乗り継ぎ、日本では不可だった3人部屋予約もできた。まさに「チェストイケ、ナコヨッカヒットベ」である。道で地図を広げていると、必ず親切に近づいてきて手助けしてくれたひとびと。公園では、優雅に湖面を漂うはずの黒鳥が、芝生の上を必死に走っているではないか! 餌に向かって。感激、感謝、爆笑と、心豊かになれたような旅だった。
さあ、今年も元気でがんばろう!(桑水流)

主人が奄美大島へ初めて単身赴任したのは一昨年の4月。同時に子供二人も就職、大学と家を離れ、私は一人の生活をスタート。それ以来、寂しさを紛らわすかのように仕事へせっせと足を運ぶはいいけど……。
我が子と同年代の社員の皆に迷惑をかける事多し。(F)

私にとって2007年の一番大きな出来事は、なんと言っても南方新社に入社したことだ。2006年春、生まれ育った愛媛から鹿児島にやって来たわけだが、いろんなタイミングや運が重なって南方新社に辿り着いた。いきなり570ページの本の編集から始まり、その後もたくさんの原稿に追われる忙しい日々だが、販促のための案山子作りもあったり毎日充実している。来年は編集能力の向上を目指したいと思っている。
今までもそうだったが、何でも面白がって取り組みたい。待ってろよ、2009年!(梅北)

あけましておめでとうございます。南方第二農園園長および時々営業、鮫島です。2007年は念願の畑をスタート、人生の目標“生き残る術を身につける”ことに若干近づけました。
生れ落ちる土地は選べずとも、生きてゆく土地は選ぶことのできる世の中。ここで生きてゆくと決めたからには、鹿児島なんてつまんねえとぼやく前に何かおもしれえことをしてやりたい。祭りなんててめえで作るもんだ、と我がに言い聞かせ2008年は、本を作ります。書店員さん、お客様が元気になる本を。ということで沸点は36℃、平熱で常に燃えながら日々是前進!
宜しくお願いします!!(鮫島)

2007年夏、思いがけないことから『南方新社』を紹介していただき入社することとなり、新しいスタートを切りました。中学時代の校長先生が、「3C―チャンスをつかんでチャレンジし、自分をチェンジして素敵な女性になりましょう」というお話をされました。まさに今私は、チャレンジしているところです。
素敵な自分にチェンジできるよう、初心を忘れず歩んでいきます。(江波)


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南方新社
鹿児島市の郊外にある民家を会社にした「自然を愛する」出版社。自然や環境、鹿児島、奄美の本を作っています。

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