2009.7.20〜2009.12.20


2009.12.20 鹿児島沖縄交流宣言

 2009年も、まもなく終わろうとしている。以前にも書いたような気がするが、この2009年は、奄美の人々にとって、とても重要な年だった。

 というのは、1609年、薩摩島津氏が奄美・琉球に三千の軍勢を派兵し、それからちょうど400年目に当たる、節目の年だったのだ。

 1609年を境に、奄美は琉球から切り離され、薩摩島津氏の植民地支配の下に置かれた。江戸期の苛酷な黒糖収奪はよく知られる。

 奄美では大規模な餓死が発生し、本土では1回も起きていない一揆が、2回起きている。この事実だけでも、江戸期の島民の置かれた状況が分かろうというものだ。

 遠い昔の江戸期だけではない。明治になっても、鹿児島県は黒糖の利権を温存しようとしたし、予算が厳しいという理由で、奄美を県予算から切り離してもいる。これは戦前まで半世紀続いた。

 戦後も、現在に至るまで、鹿児島による奄美支配は変わっていないと見る人は多い。

 県行政のトップは軒並み鹿児島人だし、日本復帰後、大量に投入された奄振予算にしてからが、その9割は本土に還流している。奄美の側から見れば、決めるのが鹿児島人だから、舞台裏は自ずと知れたもの、ということになる。後に残ったのは、土木事業で壊された自然と見苦しい景観だけ、という嘆きも聞かれる。

 慰霊祭やシンポジウムなど、奄美関係の400年行事が十指をはるかに超えたのは、薩摩島津氏から鹿児島県へと支配者は変われど支配の実相は変わらないという、抜き差しならない切迫感からと見ることができる。

 小社でも、『しまぬゆ』『奄美自立論』など、400年関係の出版が相次いだ。

 鹿児島県知事もこういった状況を知らぬはずはなかろうに、まるで頬っ被りだ。それどころか、1121日、奄美大島で鹿児島・沖縄両県知事が400年を期して交流拡大宣言をした。

 奄美の「あ」の字も出て来ない宣言文にさすがに気が引けたのか、鹿児島県当局は一切広報せず、内容の問い合わせに対しても、直前まで何ら明らかにしなかった。

 奄美人を刺激せずに、こっそりやりたかったのだ!

 当日、会場周辺では中止要請の声が上がり、奄美の地元紙、南海日日新聞は抗議行動を一面トップで報じた。

 沖縄はどうか。

 沖縄人を頭越しになされる米日両政府間の基地の取り決め。その沖縄が、今度は奄美人の頭越しに沖縄・鹿児島両県の交流拡大宣言をしてしまった。

 皮肉を感ずるのは私だけか。

2009.11.20 ゴミを投げ込む輩

 民主政権になって、少しは変わるだろう、なんて思ったら大間違いである。世の中はそんなに甘くはない。あこぎな企みは、尽きることはない。

 痛感したのは、川内3号機をめぐる民主党の対応だ。環境大臣でさえ、「原発の最大限の活用を」と言い出す始末。民主党の大臣とて、川内なんかしょせん他人事。それよりも、労組を含めた電力の票が大事ということ。

 ところが、鹿児島に暮らすこっちは他人事ではない。毎日毎日、放射能が降り積もり、事故があったら目も当てられない。

 誰でも、自分の庭や家の中に、ゴミを投げ込む輩がいたら、呼び止めて突き返すに違いない。もって帰れと言うだろう。袋叩きにする短気者がいたところで、そう非難されることもあるまい。

 警察や役場、議員に頼む前に、自分で文句を言い、片を付けようとするのが大人というもの。自分で動く、それが基本。

 九電は、勝手に私の庭や畑に放射能を撒き散らしている。おまけに私の家もぶち壊しにする時限爆弾をセットしている。これに文句を言わずしてどうする?

 というわけで、九電の3号機の申し入れ以来、出版の仕事を放り投げて、文句を言い続けている。

 いま、月2回、天文館で鹿児島人の文句度レベルを観察している。平たく言えば街頭署名をしているのだけど、年齢性別によって、反応がこうも違うのかと驚くばかりである。

一番素直なのは中高生。「あぶない」という言葉に、「それはいかん」と素直に反応する。「電気なんかいらない」と言われたら、抱きしめたくなる。これが、年齢が上がるにつれておかしくなる。特に男性がどうしようもない。ネクタイを締めた男は、目も合わさないとくる。それでも、女性は比較的まとも。

 こうみると、「野生」と言う言葉が浮かんでくる。自分で考え、判断する野生の感性を子ども達や女性は失っていない、逆に、会社につながれた男性は家畜ないしは奴隷化しているのだ、と。

 目を合わさない子が散見される進学校などは、奴隷化の予備校とも言える。要注意!

 観察話は尽きないが、こんな中でも、ちょっとは仕事もしている。『九電と原発 ①温排水と海の環境破壊』(1,050円)出来。もう川内、串木野の海はむちゃくちゃ。それどころか、東シナ海全部が危ない。九電は海を返せ!美味しい刺身を返せ! 

2009.10.20 日照り

 吉利の実家に帰ってみると、シャクナゲの木が枯れていた。この夏の長い日照りのせいだ。春が来るたびに艶やかな花を咲かせていたのに、もう見ることができないのかと思うと切なくなった。

 父は生前、植木に水遣りを欠かさなかった。そういえば、ホースを長く伸ばして畑の野菜にもよく水を掛けていたっけ。ひとしきり感慨にふけることであった。

 その時、はたと気が付いた。枯れたのはシャクナゲだけで、周辺に自生しているカシやタブの木は青々としている、山の木々も草だって元気に茂っているではないか、と。自然にとって、一月や二月の日照りなど想定内のことなのである。

 そういえば、小社が刊行している『自然農・栽培の手引き』は、水遣りにはほとんど触れていない。苗を移植するときなどは、ジャブジャブになるくらい水を掛けろと父に教わったものだ。だが、自然農では「土が乾いているときは、天気の崩れる前に移植しましょう」と書いてある程度。

 有機農家の橋口さんに、水遣りについて聞いたことがある。彼も水遣りはしないらしい。広い畑だからそもそも無理なのだが、「癖になる」とも言っていた。

 何気なく聞き流していたのだが、このときシャクナゲと野菜が繋がった。「水遣りを丁寧にした植物は根が育たない」ということだ。

 水が欲しければ深く深く根を張っていくだろう。しかし、後から後から水が与えられれば、根を張る必要はない。だからちょっと日照りが続けば弱ってしまい、酷い場合には枯れることになる。

手を掛けた野菜も、実家のシャクナゲも同じだ。根が浅かったのである。

 自然の中で鍛えられた生き物は強い。逆に甘やかされた生き物は弱い。これは、人間にも通じるに違いない。ふんだんに水を使い、冷暖房にならされ、空腹を知らぬ我々は、どれほど根が浅くひ弱なのだろうか。

 8月に出した『権力に抗った薩摩人』(1050円)が好調だ。なぜ鹿児島県人は墓を大切にするのか。切花の販売が日本一なのはなぜか? 皆さん、知っていましたか? 

 秘密は島津藩政時代の真宗禁制にあった。島津氏は真宗門徒を厳しく弾圧し、天保(江戸後期)の大弾圧では14万人を摘発している。厳しい弾圧の中で、庶民が唯一「なむあみだぶつ」と唱えることが出来たのは墓の前だった、というわけ。門徒であることをやめなかった証拠に、明治になって県内あらゆるところに真宗の寺ができた。著者は芳 即正氏。94歳の著作だ。

2009.8.20 はいまけ

 誰はばからず、「小社の社屋は豪邸です」と言い放っている。信じられないなら一度見に来てほしい。その純和風の圧倒的な佇まいにあっけに取られるに違いない。

 敷地400坪に、建坪が60坪、10坪の2階も付いているから正面から見たらお城のようだ。材木を集めるのに5千万円、3年をかけた。手がけたのは宮大工だ。断っておくが、私が建てたわけではない。古い上物はタダ、市街化調整区域の安い土地代だけを、自宅を担保に銀行から借金して買ったまで。まだまだ借金は残っている。

 

 ただ、これだけ広いと草刈りが大変だ。年に2回、盆と正月前に総出で草刈り大会となる。

 さて8月8日、晴天だが雲が多い。絶好の草刈り日和である。私は草刈機でビュンビュン刈っていく。ただ、ツツジなどの植木や庭石の周りは、機械は苦手。そこは女性軍に任せよう。隣との敷地境の崖際は、若い男性社員鮫島の係りだ。そうそう、屋根にも草が生えているからそれも鮫島。

 草刈中に毎回能書きを垂れるのだが、毎回やられてしまうものに「はいまけ」(鹿児島弁)がある。漢字で書けば「櫨負け」。むかし蝋をとったというハゼにかぶれてしまうのである。

 庭のあちこちに、ハゼノキが芽吹いている。草刈のときも見えている枝をバッと刈るだけで根まで掘り起こすことはないから、半年も経てばまた枝が茂っている。毎回同じことの繰り返しだ。

 若い人はかぶれたことがないらしく、ハゼの怖さを知らない。だからハゼそのものも区別できない。「葉っぱが左右対称に何枚も揃っているでしょう。この葉っぱが秋になると真っ赤になるんだよ。これがハゼ」と言うと、怖がるばかりで近寄ろうともしない。

 結局、私が鎌で切り、草刈機で切り散らかすもんだから、汁を浴びて毎回「はいまけ」だ。

 今回はヤブの中で蔓を切っていたら、首筋にちくちくするものが入り込んだ。「いら」だ。正確に言うと、イラガやドクガの幼虫だ。やばいと思ったが後の祭り。

 翌日には早くも両手に「はいまけ」特有の小さなブツブツと、「いら」の仕業で真っ赤に腫れた首筋の出来上がり。せっかくだから皮膚の症状を写真に収めた。

 そういえばこの事務所にはムカデも多い。マムシも見かけたし、蜂もいる。汁が付けば火傷のようになるハネカクシもいるだろう。宝庫だ。

 症状をしっかり写真に撮って生き物の写真と組み合わせれば『野外危険動植物図鑑』が一丁上がりだ。

 この本、興味ありませんか?

2009.7.20 空飛ぶおたまじゃくし

  最近ではだいぶ収まってきたが、6月以降、全国的に空からおたまじゃくしが落ちてきた、という奇妙なニュースでもちきりだった。ときには小鮒も落ちてきた。

 竜巻に吹き上げられたのか。しかし、気象台はいずれの日も落ち着いた気象状況で、ありえないという。鳥が驚いて吐き出した、というものもあった。サギなどのか弱い鳥が、ワシやタカなどの猛禽類に出くわして、腰をぬかす代わりに吐き出したというのである。ホンマかいな?と思うがまだこちらのほうが信憑性はある。

 ところが、私はふとひらめいたのである。初めての富山のニュースから数日後のことだから、日本中で気付いたのは私ただ1人だったかも知れない。

 南方新社が最初に出版したのは、1995年『滅びゆく鹿児島』である。その中にあった、鹿児島大学准教授、佐藤正典さんの折れ線グラフが、まざまざと脳裏に甦った。川の汚染を説いた章で、その折れ線グラフは、有機リン系のスミチオンやダイアジノンといった農薬使用を示したもの。6月、7月が他の月に突出して高かった。10倍、20倍も。

 6月、そう田植えの季節である。桜前線と違って、秋には収穫しなければならない稲の田植えは、全国的にほぼ6月なのである。

 ははーん。田植えの時に撒いた農薬に汚染されたおたまじゃくしを鳥が食い、本能的に吐き出したんだな。

 思い起こせば、誰でも一度や二度、腐ったものを食べてしまい、ゲロッたことはあるだろう。宴会で痛んだ牡蠣鍋が出されて、ゲロッた人は無事で、ゲロらなかった人は酷い目に合った、というのも聞いたことがある。

 いま、トレボン粒剤なんていうのが使われているらしい。

 田植えの後に、水を張って粒剤を撒く。一週間程度は、そのままにしておけという。粒剤が田の水に溶けて全ての生き物はやがて死ぬのだが、それが目的ではない。溶け出た農薬成分を稲の根っ子から吸い込ませるのが目的だ。そうなると、稲の植物体そのものが農薬になる。この効き目がスゴイ。3カ月ほどは、その稲を食った虫が、ポトリ、死ぬのである。

 うーむ。なかなか考えたものだ。近所の田んぼを散歩していたら、田んぼの吐き出し口近くの用水路にフナが何匹も腹を見せて死んでいた。田んぼを覗いたら、無数のヒルの死骸。波紋が立っているから、おっ生き物か!とよく見たら土からガスが出ていた。生き物の死体から出るガスか。

 早苗がなびく美しい水田風景も、目を凝らせば、壊死する風景なのであった。


2009.1.20〜2009.6.22


2009.6.22 二代目入居

 会社のスミにあるトリ小屋に、二代目9羽が入居した。

 生後3カ月。ピヨピヨとヒヨコのように鳴き、体つきも小学校6年生というところか。こいつらが、9月になればまた卵を生み出すのだから、トリの成長は早い。

 ところで、初代5羽(♂2、♀3)のトリが、今3羽しかいない。1♂はタヌキに誘拐され、残る1♂は人間の胃袋に納まった。

 一日中、地面をつつきながらエサを探しているトリの世界も複雑だ。

 タヌキにやられたケンケン♀の話は前回書いた。やっと回復したケンケンをいつもいじめていたのが、一緒に戦ったはずの♂だった。追いかけられたら逃げきれない。つつかれまくりだ。私も一回ふくらはぎを♂に噛まれたが、これが痛いの何の! アオ痣ができていた。ケンケンはトリ一羽やっと入れる産卵箱の下に始終隠れていた。

 いじめっ子は食う。仕方がない。北海道から出版社の友人来訪時に潰してしまった。生後1年3カ月で世を去るのは本意ではなかったろうが、「最高の味だった」がせめてもの供養の言葉となろう。

 ところが、いじめっ子がいなくなると、今度は無傷の♀2がいじめる側に向かった。必ず首筋を狙う。羽をくわえて引っ張るものだから、首は半ばはげてしまった。

 二代目の入居は6月10日。不遇なケンケンも、9羽に対しては断然強い。ケンケンで追い回し、逃げ遅れたやつを徹底的に懲らしめている。いま、初代無傷♀2、ケンケン、二代目9羽という序列ができている。

 だが、あと3カ月も経てば9羽も大人になる。その時ケンケンと9羽の序列は逆転するに違いない。同時にその頃には、二代目の♂も初代無傷♀2より体が大きくなって優位に立つことになろう。

 たった2坪のトリ小屋世界の勢力争いから目が離せない。サル山の研究で名をなした学者がいるが、トリ小屋の研究者は聞いた覚えはない。そのうち私が名乗り出よう。

 それはともかく、出版社と同じく印刷会社も景気が悪いらしい。ダンボール600箱余りの在庫本を預かってくれていた印刷会社から、倉庫を解約するから9月一杯で引き取るようにと通告が来た。もちろんこの事務所にそんなスペースはない。ただ途方に暮れるばかりだ。

 読者の中に、ダンボール600箱余り(1020坪)を無償で置かせてくれる奇特な方は居られないだろうか(連絡は099-248-5455)。ちなみに重量約12トン。普通の民家では床が抜けるからご注意あれ。

2009.5.22 タヌキ再来襲

 また、やられてしまった!

 4月20日、朝出勤したら小屋中にトリの羽が飛び散っていた。

 5羽でスタートしたのだが、去年の10月、タヌキに1羽誘拐され、4羽になっていた。今度もまたタヌキの仕業だ。

 1、2、3、4、数は減っていない。1羽のオスは果敢に戦ったのだろう、トサカが血まみれだ。メスの1羽は羽がかなり抜け落ち、うずくまって、目も閉じている。息はあるが、酷くやられたようだ。これは時間の問題か。

 肉を食べるなら、生きているうちにつぶしたほうが血が回らずにすむ。すぐに潰すことに方針は固まったが、いざ自分でやるとなると調子が出ない。かれこれ1年近く付き合ってきた仲である。エサやりの度にまとわり付いてきた。食うことを前提にしていたため名前も付けないでいたが、同じような茶色の地ドリでも、色合いが少しずつ違い、性格が違うのも分かっていた。やられたのはメスの中でも一番気の強かったやつである。

 迷いながら、うずくまるトリの鼻先にエサを置いてやると健気に食べるではないか。必死に生きようとしているのだ。

 方針変更! とりあえず、薬で消毒だけはしてあげよう。生きるか死ぬかはトリの生命力次第。死んだら裏山のタヌキに上げよう。

 抱き上げると咬み跡があちこちにある。足一本は咬み切られる寸前、ぶらぶらしている。満身創痍だ。

 ほとんど食べず、動かず、うつらうつらしながらじっと耐えていた手負いのトリに、グンと生気が出てきたのは一週間ほど後のことである。急にエサを食べ始めたのだ。それからは見る見るうちに元気になった。

 今、受難の日からおよそひと月がたった。ケンケンで歩いていたトリは、もう片方の足を地面に着けられるまでになった。この調子なら、両足で歩けるようになるかもしれない。ショックからか、卵はまだ産まないが、食欲は旺盛だ。

 一度ならず二度までも、タヌキの侵入を許してしまった。今度という今度は、絶対に入れないように横の桟を大量に補強し、魚網も2重にした。

 一方タヌキは、私がこっそり庭の片隅に植えていた枝豆を、茎だけ残して食い散らかすという挙に出た。トリを食えなかった腹いせだろうか。

 5月16日、南日本出版文化賞に小社刊『南九州の地名』が受賞。2月18日には、宮崎の宮日出版文化賞を小社刊『干潟の生き物図鑑』が受賞した。この手の賞は、出版社は紙切れ一枚もらえないのだが、まるで相手にされないよりはいい。

 2009.4.24 伊藤知事語録

 春は、新入学生、新入社員の姿がほほえましい。

 季節の風物詩とあって、マスコミもこぞって話題にしている。鹿児島の大どころの会社社長が新入社員にどう訓示を垂れたとかいうのが、記事になったりする。

 なにげなく読んでいたら、わが知事の新入職員に対する訓示に目が釘付けになった。確認のために県庁のホームページ知事発言集のコーナーを開いたら、全文が載っていた。

 あんまりひどいから、南日本新聞に投書をした。ボツになるかと心配したが、420日に掲載された。

 驚いたのは、西郷南洲遺訓を引用したくだりである。

 「万民の上に位する者、己を慎み、(中略)下民がその勤労を気の毒に思うようにならなくては、政令、行政は行われ難し」

 県民が気の毒に思うくらい働いてほしい、という趣旨は分かるが、「上に位する者」「下民」という言葉の引用はないんじゃないの? 引用するなら他にもあろうものを、よりによってこんな文章? ひょっとして、「下民」って、私らのこと?

 県庁職員が「上」で県民が「下民」などという意識を、県庁職員に持ってもらったら大変困る。

 それなのに、「皆さん方の先輩の職員にも常々言っているのであります」ともあった。おいおい、待ってくれよ、である。

 投書を見たあるマスコミの記者から、「知事は、鹿児島県で一番頭がいいのは自分だ、と言ってる。投書を見てスカッとした」と、早速反応があった。これは笑えるからいい。

 「知事は桜島ライトアップを真面目に考えている」と聞いたことがある。真偽はともかく、桜島は国立公園だから国が許すはずはない。これも放っておく。

 笑えないのは、原発に対する発言。3号機増設について、18日の九電申し入れ後のマスコミ会見で、「原子力の平和利用は、人類として、日本としても避けられない道。いかにコントロールしながら、平和的に使うかが一番必要」。

 チェルノブイリで大勢の人が死に、未だに多くの苦しんでいる人がいるのを知らぬのか。原発の下請け労働者がどれだけ被曝して、何人が死んだか、調べればすぐに分かる。JCOの事故で2人がどのようにして死んでいったか、写真も残っている。

 こういうのもあった。川内の産廃予定地について「周辺は日本で一番硬い岩盤で、透水性は低い」(421日南日本新聞)。あのー、あそこは柱状摂理で、ヒビだらけなんですけど……

 2009.3.25 原発騒ぎ

 三月、小社では新刊を四冊刊行した。

 大体、毎月二冊ずつの刊行ペース。この四冊は仕事をサボった報いなのである。

 本はただ出せばいいと言うものではない。書店さんへの配本、PRの段取りなどの販売戦略をどう組むかなど、面倒な事も多い。四冊も固まってしまえば、どれもがおろそかになってしまう。時間と金をかけて作った本が、全くの不発に終われば目も当てられない。

 仕事をサボるのは好きだが、これは天災に等しい。というのも、年明け一月に、九電が鹿児島県庁と薩摩川内市に、川内原発三号機増設を申し入れたのである。

 世界最大級一五九万キロワット。チェルノブイリ級の事故が起きれば、南九州は壊滅だ。

 そんなことはないと九電は言うが、信じるほど私はお人よしではない。新潟の例を見るまでもなく、日本は地震の巣だ。未知の活断層は無限にあるし、川内は最初の一号機地質調査のとき、ぼろぼろのボーリングコアの差し替え事件が明るみに出た曰く付きの原発だ。

 三号機なんて冗談じゃない、と申し入れ阻止のために県庁前に陣取ったが、九電社長は秘密の通路から知事室へ。「出て来い、九電真部利応社長」「帰れ、卑怯者」と怒鳴りすぎて、一週間声が出なかった。

 その後も今も、原発騒ぎに散々引きずられて、仕事どころではない。

 本を出すのが仕事なのだが、この地が壊滅したら元も子もない。反対運動もせねばならぬ。全く迷惑な話だ。

 2009.3.20 竹刈り

 南方農園の冬はミカンが豊だ。ボンタン、サワーポメロ、桜島小ミカンに紀州夏、ダイダイもある。焼酎に汁をたらせばアラ不思議、なんとも旨く味を変えてくれるカボスも実を付ける。

 暇を見ては苗を植えていた父が残したものなのだが、去年台風が来なかったせいだろうか、今年はどの木も大豊作だった。

 だが、一つだけ不作のものがあった。甘夏である。

 いつも100個や200個は軽く付ける甘夏が、今年は50個くらいしかなかった。3本の成木に、今年から実を付けだした2本を加えてもその程度だった。

 原因は分かっていた。放ったらかしの木の周辺に、進出してきた大名ダケが茂り、すっかり日光が閉ざされていたのだ。このままやり過ごせば、あと3年くらいで実どころか、木そのものも枯れてしまう。これまで散々枯らしてきたからよく分かる。

 草を刈ったり、木を払ったりという作業は冬場の仕事だ。と言うより夏場は、茂り過ぎて手に負えない。草が枯れ、木も葉を落とす冬場がやっとやる気を奮い立たすことのできる、唯一の季節なのである。

 先々週、甘夏再生作戦と相成った。草刈り機に混合油を入れてスターターを引く。勢いよく始動。刃先をぶんぶん振り回しながら、竹を切り払っていった。

 と、こう書くと、いかにもスムーズにことが運んだようだが、悪戦苦闘だ。大名ダケは、固まって生える。外側から1本切っても、内側には無数に固まっている。切った竹が倒れ込んでくるから、脇にどかさねば次が切れない。竹は互いに入れ子になり、おまけに蔓が絡んでいたりするものだから、引っ張り出すのは容易ではない。

 昼過ぎから、夕方近くまで汗を流して、やっと日当たりのいい甘夏園が再生できた。

 だが5月になれば、またタケノコを生やしてくる。それはそれで美味しいのだが、時期遅れで生えてくるやつがいる。切り株からもピンピン細いやつが生えてくる。2年も経てば、また竹林になる。そしてまた切る。その繰り返しだけで、私は年を重ねているような気がする。

 そうそう、冬場の竹林はツツガムシに要注意。この有名なダニが生息していることは、父が身をもって証明してくれた。運良く村の医者は診断できたが、若い大学病院の医者なら気が付かなかったかも知れない。竹林に入ったら風呂に入ろう。それだけで充分。

 ちょうど春の木市も始まった。枯らした分だけの苗を植えよう。それでトントンになる。

 2009.2.20 アカデミー賞

  映画「おくりびと」が米アカデミー賞を受賞した。この作品は、実は富山の田舎出版社、桂書房の本が原作になっている。

 書名は『納棺夫日記』。葬式の時、死体をきれいにして納棺する人の記録である。人は生きてきたように死んでいくというが、永遠の旅立ちの場面では、その人の生き様が浮き彫りになっていくものらしい。

 数千もの死体を見届けてきた著者ならではの視点が、読者をひきつけていく。

 桂書房と言えば、現勝山社長が38歳の時、設立した会社である。私が会社を立ち上げたのが36歳だから、似た様なものである。ただ、小社より10年ほど先にできていた。

 全国各地の田舎に出版社があるが、桂書房はいやでも目についた。決して派手ではないが、地に足の着いたラインナップが出来上がっていた。

 直接お会いしたことはないのだが、どこかで勝山社長による「真実を留めていく」という趣旨の文章を見た。だが、真実はわが身をも貫く刃となる。経営は決して奇麗ごとでは済まされないのだが、そこに安住することをよしとせず、それさえもやり過ごす頑固さを印象付けられたものである。

 かつて10年以上前になるだろうか、まちづくり県民会議では講師を呼んで定期的に講演会をしていた。

 そこに私も呼ばれ、話をしたことがある。そこでこの『納棺夫日記』を紹介した。たしか『納棺夫日記』に対抗して、『ちちもみさん日記』を企画していると話した。

 出水を車で走っている時「ちちもみします」という看板に目が吸い寄せられたばかりだった。「ちちもみさん」って何? 母乳がよく出るように、産婦のおっぱいをもみほぐす職業があることを、初めて知った。

 散々探して、やっと1人のちちもみさんに会えたのは、2年ほど後のことである。彼女も、おっぱいを見たら産婦の全てが分かると話していた。

 どういう家庭環境に育ったか、食生活はどうか、現在の家族の状況はどうか、手に取るように分かるという。

 そのことを通して、子どもの将来も想像できるものらしい。

 人生の旅立ちの場面で母子共にゆったりと身も心もほぐしてくれるちちもみさんは、とっても大切な存在であると思ったものである。

 原稿依頼は快諾してくれたが、それっきりとなっていた。どうも忙しく原稿どころではなかったようだ。

 アカデミー賞で、桂書房も少しは潤ったであろうか。報われる事の少ない仕事で、恵みの雨のあることを、心より祈る。

 2009.1.20 南大東島本

 はるか昔、高校時代、アフリカ地図を部屋に貼って眺めていた。サバンナ、サハラ、熱帯雨林、そんな遠くの地への憧れがあった。

 国内では、南の海に点在する孤島、小笠原と大東島である。

 アフリカ行きの夢は果たせていないが、小笠原には行くことが出来た。小笠原の本を出す機会に恵まれたからだ。小社の奄美本の著者エルドリッヂから、何人かで小笠原の本を書くから版元になってくれと依頼があった。

 ほいなと、二つ返事で引き受け、本が出来ると同時に営業と称して、週に一便の船で島に渡った。

 営業といっても、島に二つしかない土産物屋に本を置いてもらうだけだから、ものの半日あれば終わる。あとは一週間、極楽生活。

 二年前、そのときの執筆者の一人、背は低いのだがロングという名の言語学者から、南大東島の本を出さないかという連絡が入った。一も二もなく了解だ。ありがたいことに、学術組織からの補助もついてくるという。

 ところが他の執筆者の原稿はどんどん送ってくるのに、肝心のロングの原稿はこない。そのうち、補助の期限も切れ、先に書いた執筆者からは当方の怠慢を非難するメールが、ジャカスカ届くことになる。

 悪いのはロングなのだが、彼の悪口を言うわけにもいかず、ひたすらロングの原稿を待った。

 エルドリッヂは、アメリカ太平洋軍司令官の政治顧問をするだけあってしっかりしているのだが、ロングはどうもホがない。

 そういえば、小笠原本を出すとき、打ち合わせの場所にスターバックス新宿西口店というコーヒー屋をロングに指定されたことがある。

 ところが、わざわざ東京まで出向き新宿西口店に約束の時間に行ったのだが、待てど暮らせど来ない。店員に聞くと新宿西口には5店のスターバックスがあるという。その日は土砂降り。グジュグジュになりながら一店一店ぐるぐる探し回って、5店目にやっと探し当てた。

 その店は、たしかに西口近くにあるのだが、新宿サザンテラス店だった。抗議する私に、彼はへらへら笑うばかり。そうそう、そのとき「こいつは二度と信用するもんか」と決意したのだったが、すっかり忘れていた。

 結局一年遅れで原稿がそろい、まもなく『南大東島の人と自然』という初のガイド本がお目見えする。補助も別の執筆者の尽力でどうにかなりそう。

 あの島は、うねりが強く船は接岸できない。乗船客は、牛のように檻に入り、クレーンで吊り上げられて上陸する。おー、なんとワイルド。

 暖かくなったら営業だ。待ってろよ、南大東島。コバルトブルーの海よ!


新年のご挨拶


拝啓 皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。

 毎度のことながら、今年も年が明けてからのご挨拶。ともあれ2008年、南方新社も何とか1年を終わることができました。
 2008年年初から、鹿児島本を大事にしてくれていた渡辺店長率いる天文館ブックジャングルが閉店、その後、春苑堂南鹿児島店、甲南書店、めいわ宇宿店、前田書店、奄美では南端書房、古仁屋書店、BS吉谷……と相次いで閉店。新規は出店ゼロ?
 ここ10年のめまぐるしい書店業界の再編の波、つまり大規模書店の鹿児島進出と既存書店の淘汰、後継者不在の地方書店の廃業が相次ぐという激動が、2008年も続きました。
 しかし、小社の売上がたいした減少もせず横ばいであるということは、購買環境の悪化にもかかわらず、読者が健在であるということを示しています。
 とりわけ、『自然農 栽培の手引き』や『山尾三省 いのちを語る』『干潟の生きもの図鑑』といった、時流に関係なく、しっかりと暮らしと生命を我が物にしようという新刊本が好調であることは、何よりも希望を与えてくれます。恐る恐る、時にはやけになりながら新刊を出しているのですが、まだまだやれそうな気がします。

 『南日本の伝統文化 全25巻』のご案内です。今年より2ヵ月に1冊程度刊行していく予定です。祭り、儀礼、民話、芸能、農林漁業に関わる多様な民具……。何百、何千年と民が伝えてきた無形の文化財が、今や風前の灯。鹿児島関係の皆様には、子々孫々へ是非とも継承して頂きたいところです。

今年もよろしくお願い申し上げます。


図書出版南方新社
代表 向原祥隆


プロフィール

南方新社

南方新社
鹿児島市の郊外にある民家を会社にした「自然を愛する」出版社。自然や環境、鹿児島、奄美の本を作っています。

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